武田氏躑躅ヶ崎館跡―歴史雑感〔9〕―

甲府市に所用があり、時間に余裕があったので、酷暑の中、武田氏躑躅ヶ崎館跡(武田神社・山梨県甲府市古府中町、甲府駅北口発山梨交通バス武田神社行180円)に足を運びました。

躑躅ヶ崎館は、1519(永正16)年、武田信虎が石和川田館(甲府市川田町)から移転し築いたものです。その後、1581(天正9)年に孫の武田勝頼が新府城(韮崎市中田町中条)に移るまで、信虎・晴信(信玄)・勝頼三代の居館となり、63年間にわたり戦国大名武田氏本拠として位置したのです。武田氏期の本館は、約200m四方の主郭を中心に、その後に築かれた、主郭の西側に接する西曲輪(1551〔天文20〕年増築)、西曲輪の北側に接する味噌曲輪(西曲輪・主郭に接する稲荷曲輪を含む)、主郭の北側東部に御隠居曲輪・無名曲輪(晴信母大井夫人居所と考えられ、古図には記載がなく、近年の発掘で確認される)からなっています。御隠居曲輪部を除くと、本館の各曲輪は土塁と深い堀を巡らしています。本館は背後に山を背負い(この山上に詰城の要害山城が築かれています)、南へのゆるい傾斜平面地に立地しており、室町時代の守護館を受け継ぐ、典型的な戦国期複郭平城の縄張りとなっています。

写真1は、武田神社南正面右(東)から堀にかかる「神橋越しに入口を撮ったものです。武田神社は主郭に位置しています。実は主郭には南側の堀にかかる橋はありませんでした。ですから、神橋などは神社創建後のものなのです。

Unicode

さて、橋を渡り南参道を進むと、写真2の武田神社拝殿に出ます。拝殿の右手(東)に進むと、宝物殿(入場料300円)があり、武田氏関係の神社所蔵の武具(国宝楯無鎧〔レプリカ〕)などが展示されています。

Unicode

宝物殿を過ぎ、さらに進むと大手門に出ます。車はこちらから神社内の駐車場に入れます。写真3は、大手門土橋右外(北)から大手門土橋を撮ったものです。ここの堀は10mあるかといえる深いものです。現在では土橋北側は水がない空堀で、南側は水堀となっています。この躑躅ヶ崎館の大手門は主郭の東側に作られています。さらに、発掘調査により、土橋の東には三日月堀が確認されており、防御力の強化を図ったことが分かります。本館では堀を渡る橋は、この大手門のみならず、すべて土橋となっています。なお、現在、大手門外東地区は公園整備中です。

Unicode

大手門から堀に沿って、北へ進むと、主郭北東角から北にかけて公園整備がなされ、道が主郭北側堀に沿って西に延びており、これを進むと、西曲輪に入る土橋に出ます。ここから西曲輪に入り、この東北角の土塁高台上から、南に主郭と西曲輪を隔てる堀を撮ったのが写真4です。

Unicode

先の土橋に戻り、さらに道を進むと、西曲輪西北角に出ます。ここで積翠寺への道路に出ます。ここで南に道路を下ります。左には堀が続きます。やがて西曲輪西南角に出ます。南側の堀に沿って進むと、堀にかかる「みその橋」に出ます。かつての土橋のところで、現在は木橋となっています。この橋から西曲輪に入り進むと、に見る主郭への土橋に出ます。写真5は、西曲輪から土橋越しに主郭を見たもので、主郭の門の両側に木々に覆われた土塁が見えます。

Unicode

最後の写真6は、主郭東南角より神橋へと南側の堀を木々の間から撮ったものです。以上で、躑躅ヶ崎館跡は終わりですが、この四囲を巡ることもでき、十分に往時の戦国大名武田氏本拠を偲ぶことができるでしょう。

Unicode

(2008.08.09)

 

〔追記〕 フォトアルバム「武田氏躑躅ヶ崎館」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkueFShGkTB-seuUAです。

(2011.09.29)

広告

kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本中世史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中