望叢祠―成都雑感〔50〕―

 

今回は成都市西北郊外22㎞にある成都市郫県県城の望叢祠を紹介します。望叢祠は古蜀王国の王、望帝と叢帝を祀ったところです。

まず簡単に、両帝のことを紹介します。古代の蜀(四川省)で初めて王として登場したのは蜀侯蚕叢で、養蚕を興したとされています。次いで柏灌、魚鳧と継がれ、彼達も数百年続いたとされており、漁業(鵜飼)の象徴とされています。次いで、杜于が自立して蜀王となり望帝と名乗り4百年ほど続き、農業を盛んにします。次いで、治水に功のあった宰相鼈霊(楚人)に位を譲り、鼈霊は叢帝と称して百数十年治め、その子孫が12代続きます。これが開明氏の蜀国です。開明氏の蜀国は、BC316年、北の秦国恵文王の派遣した司馬緒によって滅ぼされます。以上が史書(『史記』、後漢末BC1世紀の揚雄『蜀王本紀』、西晋4世紀の常璩『華陽国志』)の示している、いわゆる古蜀王国の歴史です。現在では、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の時代が蚕叢・柏灌・漁鳧の3代、金沙遺跡に代表されるBC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化の時代が望帝以後に相応するのではないかと考えられています。もちろん、黄河文明の三皇五帝が伝説のものであると同様に、蚕叢以下も伝説的存在で、史実そのものではないことはいうまでもありません。ですが、黄河文明とは異なる独自の文明である長江文明の古蜀を象徴する伝説的存在が彼等なのです。この意味からいうと、時代的には相違しますが、三皇五帝の黄帝に相当するのが蚕叢、堯帝に相当するのが望帝、夏王朝の始祖とされる禹王に相当するのが叢帝ではないでしょうか。

さて、望叢祠はこの望帝と叢帝を祀る地として陵のあるところです。もちろん伝説上の帝ですから、この両陵とも伝説上のものです。望帝の陵は最初、現在の成都市から西北に50㎞あまりの都江堰市の都江二王廟のある玉塁山麓にあり、崇徳祠と称していました。南北朝の斉明帝の時(494~98)、郫県の現在地にこれを移し、叢帝陵と合併し、以後、望叢祠と称するようになりました。宋代に新修造されましたが、明末の戦乱で陵を除き破壊されました。清の道光14(1834)年に修造されて、約1.5ha弱の地を占めるようになりました。光緒33(1904)年に祠の東に聴鵑楼を建てました。中華民国の1915年に祠の後面に庭園を作りました。1884年、郫県政府が大規模な修造を行い、現在は祠の面積は5.5haとなっています。1991年、祠は四川省文物保護単位(史跡)に指定されました。

望叢祠は郫県県城の南西部に位置します。成都市からの交通は、まず金沙公文站からの305路で終点の郫県客運中心站に行きます。なお、以前はこのバスの終点は望叢祠でしたが、客運中心站が新設されたことにより、終点が客運中心站になりました。40ほどの停留場があるため、金沙から郫県県城まで1時間以上はかかります。運賃は2.5元(エアコン車は3元)です。金沙で満員となり、郫県に入るまで降車客はいませんから、金沙で乗るべきです。郫県客運中心站は西灌西路(国道213号―成都市と都江堰市を結び、その先甘粛省省都蘭州に繋がる)と二環路(望叢西路)との西南角に位置しています(なお、現在二環路は全面道路工事中です)。ここより、二環路に道を取り、1.5kmほど徒歩で南下すると望叢祠前に着きます。入場料は5元で、開館時間は掲示していませんから不明ですが、他の観光地と変わらないと思いますから、8時~18時ではないでしょうか。入口の大門の左側に窓口があります。

大門を入ると、正面に写真1に見る、「望叢祠」壁が目に入ります。現在の壁が何時できたものか、説明がないため分かりませんが。壁の後方に見える建物が望帝叢帝紀念堂(記念堂)です。これは1993年に改築されたコンクリート製の建物です。

071027郫県・望叢祠 004

この中に祀ってあるのが写真2に見る、望帝と叢帝の塑像です。左が望帝で、右が叢帝です。これも説明がないため何時のものか分かりません。堂内の壁には両帝を中心に古蜀王国の説明が掲示されています。

071027郫県・望叢祠 008

紀念堂の後面に出て、橋(左右は池)を渡り直進し、左手に階段を上ると、望帝陵正面に出ます。がこれです。正面に1919年に四川省督軍の熊克武の建てた「古望帝之陵」碑があります。望帝陵は高さ15m・周囲約200m余の長楕円形(軸は南東・北西)のものです。陵は古柏で覆われており久古を感じさせます。正面の祭壇の後方は階段となっており、本来はそこから上り陵の前に出るのです。以上、地形を見ますと、元来の丘が整備されて陵と化したといえます。いわば自然地形を生かしたものなのです。この点で、陝西省黄陵県にある黄帝陵が自然の橋山山上にあり、山自体が陵墓とされているのと、同様に考えることが出来ます。すなわち、望帝陵は人工によるものではなく、自然の丘(山)を、後世の人がそれを陵墓として祀るようになったのです。望帝は郫に治したとある(『蜀王本紀』)ので、平地のこの付近で自然地形上の丘といえば、その地しかないのです。

071027郫県・望叢祠 020

望帝陵から下って直進し、道を左(北)へ池を越えていくと、写真4の叢帝陵の正面に出ます。叢帝陵は高12mで、直径20mほどの円形をしています。これも古柏に覆われています。地形を見ますと、望帝陵からの続きの丘の稜線の末端が叢帝陵に相当します。ですから、この陵も自然地形を利用したものといえます。この陵の後方へと道を取ると、聴鵑楼に出ます。そして、望帝叢帝紀念堂へと戻ります。

071027郫県・望叢祠 021

最後に、望帝陵の南には博物館が設置されて、郫県の遺跡発掘品の展示などがなされています。また、紀念堂の右手の池に面して、レストランが設置されており、同時に池畔に竹椅子を出して、四川の茶館を楽しめます。四川人の麻雀好きを表すように、麻雀卓も用意されています。この望叢祠は成都・都江堰間に位置していますから、都江堰観光の帰り、時間的余裕があるならば、寄られるのもいいでしょう。

(2007.10.28)

 

追記  古蜀王国に関しては、「金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔39〕―」(2007年4月19日付)を参照してください。(2009年1月7日)

 

〔追々記〕 フォトアルバム「成都(郫県)・望叢祠」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpIQnLgHFWfVvql5tQです。

(2011.09.30)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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望叢祠―成都雑感〔50〕― への3件のフィードバック

  1. やすよ より:

    歴史にはうといのですが、本当に中国の歴史は長いですね。養蚕とかで国を治められる。可能性としては「あり」なんでしょうね?今の中国、何処までが本当の事が疑うと切りがないのですが、歴史は考古学的に出土品がない場合は想像の世界なのでしょう。それもロマンもあり面白い面でしょうか?

  2. 正大 より:

    やすよさん、おひさしぶりです。歴史研究者の立場からいえば、史料(文献・考古を問わず)が無のところからは何も言えません。しかも、史料があるといっても、時代が古くなれば、どうしても断片的になり、しかも信憑性に問題が出てきます。それ故に、厳密な史料批判が不可欠です。それも史料の表面的なものだけで判断するのでなく、この後背に潜んでいるもの可視しなければなりません。当然ですが、こうして厳格に史実を求めていくと、分かることよりも分からないことの方が過半です。現在の知見で分かることと分からないことを分別するのが科学的態度ですから、歴史学に於いても同様に思考します。時代がさかのぼるほど、分からないことでいっぱいなのです。以上からすると、小説家は己の想像力・感性が勝負ですから、研究者に比して、自由度があり、うらやましいものです。ですが、源義経を扱った小説で、鎌倉期を専門とする私の目から見ると、ざっと読んだ範囲で、司馬遼太郎も含め、同時代人の意識・感覚を描き出した作品はありません。あくまでも作者の現代感覚によっており、それに史実の詰めが甘すぎます。

  3. aki より:

    ブログ読んでくださってありがとうございます^^
    すごい内容で自分のブログ恥ずかしい・・・・。
    勉強させていただきます。中国にいたら歴史を知らずして居れないことに
    気づきはじめ(いまさらですが・・・)たところです。
    夏休みは 西安に観光にいくので こんどこそ 少しは歴史の知識を入れて見学しようと思います。
     

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