武蔵国伝源範頼関係史跡―歴史雑感〔7〕―

 

 鎌倉幕府の創始者源頼朝の異母弟範頼は、この西国派遣軍総大将として、九州まで遠征し、平家滅亡に役割を果たしましたが、政治家の頼朝・武将の義経として大きく評価されている兄弟に比して、平凡とされて一般的には無名といってよい存在です。この範頼を再評価すべく、範頼を主題とした拙稿(2005年8月24日付「拙稿のファイル頒布のお知らせ」参照)をいくつか発表してきました。

 範頼の正室は頼朝側近の安達藤九郎盛長(武蔵有力武士の足立遠元叔父)の娘で、彼女は流人時代の頼朝を支えた乳母比企の尼の孫(盛長妻が尼長女)です。また、範頼の子孫は吉見氏を名乗ります。以上のことからと思われますが、埼玉県の旧吉見・足立郡内には範頼に関する伝承が遺されており、範頼関係の史跡と伝える所がいくつかあります。その詳細については関係市町村(北本市・吉見町等)の市町史や史跡・観光案内等を御覧ください。

 さて、政治経済史学会恒例の中世史部会の夏合宿(8月1921日)からの帰途、久しぶりに伝範頼関係史跡に立ち寄りましたので、その代表の2か所の写真を載せました。写真1が伝源範頼館跡の息障院(吉見町御所)の正門前から左(西)に堀跡と伝えるものを撮影したものです。ただ、館の規模としては最小規模であり、範頼の格からすれば小さすぎる感がします。

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 写真2が国天然記念物の蒲桜(北本市石戸宿)で、この地も範頼館跡と伝える所です。桜の根元には鎌倉時代からのものと見られる板碑が残されており、以前は囲いがなく根本まで行けましたが、現在では写真の石碑(大正12年)の外側に柵が整備されて木を保護するようになっています

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 現在とは異なり、鎌倉時代には荒川本流は元荒川で、足立・吉見両郡間は馬の交通に支障なく、伝範頼館跡の息障院・石戸蒲桜と、南北朝期造立と考えられる伝安達盛長像を捧持するとともに伝盛長館跡とされる放光寺(鴻巣市糠田)との三か所は、相互に指呼の間です。以上、比企・足立(安達)との縁戚関係から、範頼が何らかの所領をこの地に得ていたとしても不自然ではなく、この意味から範頼関係の伝承地があることも自然といえましょう。ただ、それで伝承そのものが史実であるとまではいえません。

(2006.08.22)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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