武蔵武士足立遠元(その8)―歴史雑感〔6〕―

(その1) 一、遠元の系譜(2005.11.06)

(その2) 二、平治の乱の遠元(2005.11.12)

(その3) 三、治承・寿永の内乱における遠元(2005.11.19)

(その4) 四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列(2005.12.02)

(その5) 五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―(2005.12.18)

(その6) 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―(2005.12.25)

(その7) 七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―(2006.01.05)

(その8) 八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元(2006.04.08) (終わり)

八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元

 お待たせしましたが、今回で最終回となります。

 1199(正治元)年正月13日、将軍源頼朝が53歳で死去し、次いで2月6日、嫡子頼家は政所吉書始の儀を行ない、ここに正式に第2代将軍として出発します。父頼朝の将軍独裁制を引き継ぎますが、創業者としてカリスマ性を備えた頼朝と異なり、18歳と若く経験も浅い頼家の前途には未知なものがありました。

 2か月後の4月12日、頼家の親裁が停止され、十三人衆の合議による成敗と定められました(『吾妻鏡』同日条)。所謂十三人合議制です。構成メンバーは有力御家人、すなわち東国武士(御家人)と文士(文吏寮)からなります。文士は、政所筆頭別当中原(大江)広元、問注所執事三善善信(康信)、公事奉行人藤原(中原)親能(在京・責任者)、政所別当二階堂行政の4人で、詳論を省き結論だけいうと、当該期におけるトップ層で順当なものです。武士は、伊豆国出身で将軍頼家の外祖父北条時政・義時父子、相模国の三浦氏族の三浦義澄・和田義盛(侍所別当)、相模国の大庭氏族の梶原景時(侍所別当)、武蔵国の頼家乳母夫比企能員、武蔵国の足立一族の足立遠元・安達蓮西(盛長)、常陸国の宇都宮氏族の八田知家の9人です。遠元も十三人衆の一人なのです。

 さて、武士メンバーは、北条氏を除けば、少なくとも郡規模の本領を有する氏族で、関東の有力御家人の代表者といえる存在です。しかし、重要な氏族が姿を見せていません。どの氏族でしょうか。

 そこで、鎌倉幕府の歳首垸飯の沙汰人メンバーを見てみましょう。というのは、垸飯とは、臣が主人に酒肴を献じてともに盃事をすることで、主従の縁を確認し固める儀式です。沙汰人はこの儀式で酒肴を献じる臣です。鎌倉・室町幕府では正月(歳首)の恒例儀式として、重臣が沙汰人になりました。鎌倉幕府においては、沙汰人は当該期の幕府内の有力御家人の実力・地位を反映したものになっています。さて、頼朝期の1191(建久2)年の歳首垸飯沙汰人は、(その4)で述べてあるように、元日千葉常胤・2日三浦義澄・3日小山朝政・4日畠山重忠・5日宇都宮頼綱となっています。頼家期の1120(正治2)年のそれは元日北条時政・2日千葉常胤・3日三浦義澄・4日中原広元・5日八田知家・6日大内惟義・7日小山朝政・8日結城朝光となっています(『吾妻鏡』同日条)。

 さて、この二つの歳首垸飯の両方とも務めている沙汰人の中で、十三人合議衆に姿を見せていない氏族は下総国の千葉氏族(千葉常胤)と下野国の大田氏族(小山朝政・朝光)の2氏族です。(その4)で述べたように、鎌倉幕府樹立に当たって、三浦氏とともに千葉氏は双璧をなす一族で、御家人ナンバーワンの存在です。

 では、小山氏はどうでしょうか。小山氏は「一国之両虎」(『吾妻鏡』養和元年閏二月二十三日条)と称された下野国の豪族です。治承・寿永の内乱前期の1183(寿永2)年2月、常陸国の志田義広(頼朝叔父)が反頼朝の兵を挙げます。このとき、義広は北関東の雄、藤姓足利氏と小山氏に参加をうながし、頼朝を撃破しようとします。しかし、下野国野木宮(栃木県野木町)に小山氏は単独でこれを破りました。野木宮合戦です(石井進氏「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」『鎌倉武士の実像・石井進著作集第5巻』2005年1月岩波書店参照)。頼朝にとって、この義広の攻撃は危機であったのです。それを排除したのが小山氏で、これにより頼朝の軍権は北関東へと浸透して行き、彼に並ぶ者はいなくなります。このように、鎌倉幕府樹立に当たって、小山氏も欠くことのできない氏族なのです。そして、1189(文治5)年の奥州兵乱(奥州合戦)での頼朝直卒の鎌倉進発軍交名において、大田氏族は御家人中で三浦氏族の次に記されており(『吾妻鏡』同年七月十九日条)、御家人ナンバースリーといってもよいでしょう(千葉氏は東海道軍大将軍として別進発)。このことは頼朝期の歳首垸飯序列とも一致します。

 こうしてみると、十三人合議衆には御家人ナンバーワンとスリーが欠けていることになります。又、地域的にいっても、利根川から東の代表である両氏を欠いては偏りが出ます。これでは十三人合議衆が真の意味で有力御家人の合議になっているとはいえないでしょう。この意味で十三人合議衆が機能していかなかったと考えます。

 頼家将軍期で、遠元は梶原景時弾劾連署に名を連ねますが(『吾妻鏡』正治元年十月二十八日条)、以後『吾妻鏡』には所見しません。ですから、1203(建仁3)年9月の所謂「比企氏の乱」において如何なる行動を取ったかは明かではありません。ただいえることは、頼朝期に武蔵国支配を掌握していた比企ファミリーでは、平賀氏も畠山氏も北条氏側として比企氏撃滅に参加したことです(『吾妻鏡』同年九月二日条)。比企ファミリーは崩壊していたのです。

 「比企氏の乱」により、頼家は失脚し、弟千幡(12才)が第3代将軍になります。同年10月8日、千幡は北条時政名越亭で元服の儀を遂げます。源実朝の誕生です。翌9日、将軍政所始の儀と垸飯盃酒の儀を行なった後、実朝の甲着始の儀が執り行われます。時政がこれを扶持し、小山朝政と足立遠元が甲冑を着せます(『吾妻鏡』同日条)。(その7)で触れたように、頼家甲着始の儀でも遠元は重要な役を果していますから、その意味からいえば、その役は当然ともいえましょう。ともあれ、遠元は面目を果したことになります。次いで、1115日の鎌倉中寺社奉行改定で、永福寺阿弥陀堂奉行人となります(『吾妻鏡』同日条)。他の奉行人のメンバーと比較すると、遠元は70代に達そうとし最高年齢と考えられます。すでに、頼朝期の宿老(千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平・岡崎義実・安達盛長そして遠元)は1183年の上総広常、1200年の三浦義澄・安達盛長・岡崎義実、1201年の千葉常胤と死去しており、土肥実平も一説〈『系図纂要』〉では1191年死去となっていますから、遠元はその最後の一員として、高齢にもかかわらず第一線で頑張っていたわけです。

 しかし、同年1214日の将軍実朝永福寺参詣で、『吾妻鏡』同日条には、北条時房以下が供奉したとし、御家人を結城朝光・長沼宗政・安達景盛・三浦義村・足立遠元・千葉常秀…と順に記しています。このことは、前段での実朝元服の儀に、従兄弟の安達景盛(盛長嫡男)が列座しているのに、姿が見えないことを合わせ考えますと、足立一族間での力関係が安達氏上位へとなっていくことが窺えます(詳細は略しますが、頼朝期の『吾妻鏡』記載において遠元は基本的に盛長の上位です)。

 1205(元久2)年元旦、実朝将軍を擁立した北条時政は垸飯沙汰人を務めます。幕府第一人者であることを示したのです。『吾妻鏡』同日条にはこの沙汰人以下の諸役が記されています。『吾妻鏡』の記載でこのことは頼朝期の1190(建久2)年に次ぐものです。三役は御剣役小山朝政・御弓箭役三浦義村・御行騰役足立遠元で、馬引役の一員として足立八郎、すなわち遠元の嫡子元春が見えます。元春の『吾妻鏡』初見です。足立氏においても後継者が登場したことになります。この三役を頼朝期の建久二年歳首垸飯では沙汰人一族が務めたこと(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446200310月参照)を思うとき、ここに、完全に北条氏に下位し、これに奉仕する足立氏の立場が見えています。しかし、それは足立氏に限ったわけではなく、この垸飯諸役を務めた諸氏にもいえることです。

 この年は鎌倉幕府にとって激動の年でした。それは、6月の武蔵国最有力者の畠山重忠の滅亡(二俣川合戦)と、北条時政失脚・武蔵守平賀朝政誅殺の所謂「牧氏の変」です。この二俣川合戦は遠元にとって痛恨の一事であったと思います。というのは、(その1)で述べてあるとおり、遠元の娘婿が次郎重忠であり、二人の間には小次郎重秀が儲けられていたのですが、重忠(42才)が戦死、その後重秀(23才)も自害した(『吾妻鏡』同年六月二十二日条)からです。これに先立ち、同日早朝、重忠息の六郎重保(時政外孫)も鎌倉内で誅されます。ここに、比企氏に続いて、武蔵国の豪族畠山氏が滅亡します(なお、名跡は足利氏庶流に継がれます)。当然ながら、重忠の件は遠元にとって打撃となったことは言うまでもありません。武蔵国を代表する畠山・比企氏が滅亡した今、残るは足立一族です。しかし、安達景盛が二俣川合戦で先陣を切ったこと(『吾妻鏡』同上)で分かるよう、すでに北条氏には敵対しえなかったのです。前述してあるように、ここに安達氏が足立氏に上位することになります。そして武蔵国支配において、国守足利氏・(後見)北条氏・(在国支持)安達氏の体制が形成されることになります(当該期の武蔵国支配に関しては、拙稿「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」『政治経済史学』2221985年1月参照)。遠元は『吾妻鏡』のこの合戦関係記事には所見しませから、彼がどのような行動をなしたかは明かではありませんが、積極的に行動することなく、おそらく在国して事態の動きを傍観せざるをえなかったと想像します。

 翌々1207(承元元)年3月3日条の、幕府の北御壺で行なわれた鶏闘会への出席を最後に、遠元は『吾妻鏡』から姿を消します。これには北条時房以下、源(中原)親広・結城朝光・和田義盛・足立遠元・安達景盛・千葉常秀・和田常盛・三浦義村・長沼宗政らが参加しました。すでに高齢でもあり、これから間もない時期に世を去ったと考えてもいいでしょう。

 遠元の跡は嫡子八郎左衛門尉元春に継がれ、さらに木工助遠親、太郎左衛門尉直元・三郎左衛門尉元氏と継がれていきます。北条氏と姻戚関係を結ぶなどして、安達氏が権力中枢に位置したのに対して、足立氏は武蔵国の御家人として生きていくことになります。しかし、その両家とも1285(弘安8)年の霜月騒動で嫡系が滅亡します。これ以後、足立氏は武蔵国での足跡よりも、遠元の孫遠政を祖とする丹波国氷上郡佐治庄(兵庫県丹波市青垣町)に西遷した丹波足立氏の方に残されることになります。

(終り)

(2006.04.08)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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