武蔵武士足立遠元(その7)―歴史雑感〔6〕―

七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―

遠元が頼朝とその嫡子頼家に蝟集する比企ファミリーの一員であることは、すでに(その1)において述べたところです。そこで、話を少し前にさかのぼらせます。

すでに拙稿において述べておりますが、1188(文治4)年7月10日、頼朝の嫡子万寿(頼家)は7歳で甲着始の儀を行ないます(『吾妻鏡』同日条)。この儀式において、平賀義信(比企尼三女婿・乳母夫)・比企能員(比企尼甥・乳母夫)が万寿の登場を扶持し、小山朝政が甲直垂を持参しこの着替えで腰帯を結び、千葉常胤父子が甲櫃を持参し扶助し甲着をし、梶原景季(父景時が乳母夫)以下が剣などを進め、八田知家が馬を献じ、三浦義澄・畠山重忠・和田義盛が万寿の乗馬を扶助し、結城朝光らが補佐して3度南庭を打ち回ります。そして、下馬を足立遠元が扶助します。甲着を終えた後、場所を西侍に移して、義信の経営で盃酌の儀が行なわれ、万寿の甲着始の儀を祝います。以上の甲着始の儀に登場するメンバーはみな鎌倉幕府を支えている有力御家人であることはいうまでもありません。両翼ともいえる千葉・三浦氏が登場するのは当然として、儀式の基本場面は、登場の義信・能員、乗馬補佐の重忠、下馬補佐の遠元と、比企ファミリーで構成されているといっても過言ではありません。遠元もこの一員として万寿を奉持していたといえましょう。かように、万寿の廻りは比企ファミリーで蝟集されて、母政子の生家北条氏は、義時が頼朝出御の時の御簾上げ役のみで、影が薄いのです。

甲着始の儀の翌々年である1190(建久元)年4月11日、9歳の万寿は小笠懸射始の儀を行ないます(『吾妻鏡』同日条)。師範としての下河辺行平(下総国藤姓秀郷流大田氏族)が弓を献じて、これを扶持します。三浦義澄・千葉常胤以下が的以下を進めます。そして南庭で小笠懸射始の儀が行なわれます。小山朝政・足立遠元・畠山重忠・小山田重朝・和田義盛・梶原景時が招請されて、この場に候らいます。万寿は3度射て、天性の技として皆を感心させます。ともあれ、万寿は頼朝の後継者としてのお披露目を無事果たしたことになります。

以上にように、比企ファミリーの一員として、頼朝後継者万寿(頼家)の節目の儀式に、遠元は参加しそれを扶持しているのです。

他方、1189(文治5)年4月18日の北条時政3男の五郎時連(時房・15歳)、1194(建久5)年2月2日の嫡孫太郎頼時(泰時・13歳)の頼朝御前における元服の儀に、遠元は参列しています(『吾妻鏡』同日条)。いずれも、平賀義信を筆頭に源家御一族や千葉常胤・三浦義澄らの有力御家人が参列しています。遠元も押しに押されぬ有力御家人の一員なのです。そして、(その1)で述べてあるように、遠元の娘が時房の正室になります。この婚姻が何時なされたかは史料には見えていません。彼女の生んだ三郎資時は1199(正治元)年・四郎朝直は1206(建永元)年生まれです。他腹の太郎時盛は1197(建久8)年生まれです(なお、次郎時村は生年不明です)。以上からいえることは、婚姻は建久年間になされたとするのが至当です。さらにいうなら、時房兄の義時が御所官女の姫前(比企朝宗の娘)に思いをかけ、それを知った頼朝が離別不可の起請文を義時から取り、二人の婚姻を認めたことを、『吾妻鏡』建久三(1192)年九月二十五日条に、記載されていることを考えると、時房と遠元娘の婚姻も『吾妻鏡』に記載された可能性が高いでしょうから、現在残されている『吾妻鏡』にその記載がないのは、逆に残されていない部分、すなわち欠文部分(建久七・八・九年条)に婚姻がなされたと考えることができます。すなわち、1186~8年(建久7~9)の間になされたと考えます。このことは、時盛・資時らの生年から考えても至当といえます。こうして、北条氏は義時兄弟が比企ファミリーと婚姻関係を結んだのです。

1195(建久6)年、頼朝は第二次建久上洛を行ないます。治承・寿永の内乱で平氏により焼討ちされた東大寺の再建落慶供養(3月12日)に参加するためです。今回も東国の多数の武士を引き連れ上洛した頼朝は、10日、先陣畠山重忠・和田義盛、次(先)随兵120騎、(御後)狩装束16騎、次(後)随兵123騎、後陣梶原景時・千葉胤正、最末水干11騎からなる、堂々とした行列を組んで南都の東南院に入りました(『吾妻鏡』同日条)。遠元は今回も参加し、三浦義澄・比企能員らと同じく御後に位置し、それは12番目です。第一次建久上洛と同じ御後に位置しており、彼の立場が揺るぎなく、有力御家人の一員であることを示しています。

本上洛の最後として、5月20日、頼朝は四天王寺参詣を行ないます。先頭に畠山重忠・千葉(相馬)師常とする先陣随兵26騎、御後14騎、千葉胤正・足立遠元を後尾とする後陣随兵26騎、それに最末として和田義盛という行列を組みました(『吾妻鏡』同日条)。ここで、注意されるのは、遠元がいままで位置していた御後ではなく、後陣随兵最後列に位置していることです。では、一般的に序列の劣る後陣随兵への移動は遠元の地位の低下を表わすものでしょうか。そうではないと考えます。何故ならば、これが後尾であるからです。

この2回の上洛において、先陣先頭に畠山重忠、後陣後尾に千葉氏を配することは、第一次上洛の出発の際の『吾妻鏡』記事、すなわち建久元年十月三日条に見るとおり、基本です。いままで述べてきた上洛関係の行列記事を見ていただければ、この原則が貫徹していることは明らかでしょう。すなわち、この先頭と後尾は特別な位置なのです。重忠は奥州兵乱においても大手先陣を務めており、治承・寿永の内乱でも西国へ出陣し、活躍していることは『平家物語』などにも記載されているように著名です。千葉氏が頼朝の片腕として内乱を戦い抜いたことはすでに述べていることです。両者は実戦経験豊かであり、かつ有功の武士であり、都においても広く知れていたといえる存在です(京都治安維持のため、1187年に下河辺行平とともに千葉常胤は派遣されて、後白河院の叡感を受け、任務を全うしています〔『吾妻鏡』文治三年十月八日条〕)。これに比して、遠元は頼朝の親衛隊的存在として東国では重きをなしていたでしょうが、姻戚関係に繋がる公家らを除くと、京においてはそれほど知られていたとは思われません。この意味で、千葉氏と同列を組むということは、その存在を御後に位置するよりは際だたせることになり、遠元個人の存在を西国人に示すことになります。すなわち、決して遠元の位置の低下ではなく、むしろ名誉といえるものです。こうして、第二次上洛においても遠元は名誉ある位置を示したのです。

この第二次建久上洛の年、1195(建久6)年を最後に、頼朝の死去する1199(正治元)年正月条まで現存の『吾妻鏡』は欠文となります。ですから、頼朝最晩年の遠元については示すことが出来ません。が、彼が比企ファミリーの一員として、武蔵国の有力御家人として、同国の支配の一翼を担い、時期後継者頼家を扶持し、幕府宿老として重きをなしていたことには変わりがないでしょう。

(続く)

(2006.01.05)

広告

kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本中世史 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中