武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕―

六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―

1189(文治5)年7月、鎌倉殿源頼朝は奥州侵攻を開始し、9月には奥州平泉藤原政権を滅亡させます。奥州兵乱です。この合戦は、南は九州の薩摩国からと、全国の武士を動員しての侵攻で、二十八万四千騎(『吾妻鏡』同年九月四日条)と称する大軍を結集させました。もちろんこれは誇張された数で、実数はこれよりかなり低いと思われますが、治承・寿永の内乱で頼朝の動員した兵数を超えていることは確実でしょうから、これまでの日本歴史上で、最大の大軍といえましょう。千葉常胤・八田知家を大将軍とする東海道軍は常陸国から陸奥国浜通へ、比企能員・宇佐見実政を大将軍とする北陸道軍は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして頼朝が直卒する大手の東山道軍は下野国から陸奥国白河関へと侵攻するのです。

7月19日、頼朝は鎌倉を出陣します。『吾妻鏡』同日条には、これに従軍した武士の交名があり、筆頭の武蔵守平賀義信以下、144名が記載されています。この39番目に足立遠元が記載されています。同時に、その前38番目に藤九郎盛長がいます。この交名においては、最初は義信に代表される源家御一族が続きます。御家人では21番目の三浦義澄がトップです。以後、御家人たちとなります。28番目の土屋義清までが三浦一族です。同じく29番目の小山朝政から33番目の吉見頼綱までが小山一族関係です。このように、この交名は一族が連続してまとまって記載されています。そして、盛長の前は畠山一族の重成・重朝、遠元の次は土肥実平・遠平親子となっており、両人とは異なる氏族です。したがいまして、盛長と遠元が連続して記載されていることは両人が一族である何よりの証拠となります。すなわち、(その1)で述べた遠元の叔父が盛長で、両人は足立氏なのです。

治承・寿永の内乱では出陣した気配がない両人は、ここに奥州侵攻に出陣するのです。残念ながら、奥州侵攻に関する『吾妻鏡』の記載にはこの交名以外に両人は姿を現わしませんし、他の史料も同様ですから、彼らの具体的活動については述べることは出来ません。治承・寿永の内乱において足立氏が頼朝親衛隊として鎌倉内に位置したことを考えると、今回においても、おそらく頼朝親衛隊としてその身の回りにあって、直接前線で戦うことはなかったと考えます。

奥州兵乱に勝利した鎌倉武家政権は、その冬に起きた出羽国大河兼任の反乱を、翌1190(建久元)年3月に鎮圧しました。ここに1180(治承4)年に源頼政の蜂起により口火を切った内乱がようやく終結することになりました。治承・文治の大乱です。鎌倉殿頼朝は、ここに南は喜界島(奄美群島)から北は外が浜(津軽)までと、北海道を除く日本列島全体の武士に君臨する存在となりました。この成果を引っさげて、頼朝は平治の乱(1159年)により伊豆国に流罪となってから、最初の入洛を果たします。頼朝の第一次建久上洛です。117日、頼朝は、畠山重忠を先陣に、前に3騎ずつ列した武士が先陣随兵に60180騎、後に水干輩5番10騎、後陣随兵46138騎、最後を後陣として千葉常胤・梶原景時ら3人、という堂々たる軍列を組んで入京し、六波羅に入ります。(『吾妻鏡』同日条)当然ながら都人に鎌倉政権の実力を眼前で示すためのものです。この軍列において遠元は工藤祐経とともに水干輩5番に位置しました。水干輩には三浦義澄や八田知家らが列しており、当然ながらあまたいる御家人から選ばれた者たちですから、名誉ある位置ということが出来ます。

入洛した頼朝は、京都の公家政権を総覧する治天の君の後白河法皇、摂政九条兼実と会談を遂げるとともに、9日に権大納言に、24日に右近衛大将に任じられます。後に鎌倉幕府の権威の象徴となる右大将家頼朝の誕生です。この任官により、恒例にしたがって、12月1日、頼朝は右大将拝賀の儀を執り行います(『吾妻鏡』同日条)。この拝賀行列において、侍として7人が列します。三浦義澄・千葉胤正・工藤祐経・足立遠元・後藤基清・葛西清重・八田知重です。いずれ劣らぬ有力御家人です。これに選ばれたということは、彼らがそれだけ頼朝から認められたことを意味しますから、名誉に過ぎるものはないということになります。遠元はその一人なのですから、如何に彼が頼朝に信頼されていたかが分かります。

前年の奥州侵攻が、事後追認とはいえ、7月19日付の泰衡「追討宣旨」が発せられたことで(『吾妻鏡』文治五年九月九日条)、「公戦」として頼朝は勲功賞をえることになります。それが権大納言への昇進ですが、これ以外の勲功賞として「郎従」(御家人)の成功推挙権が与えられます(『玉葉』建久元年十二月十日条)。人数で交渉があり、最終的には10人が推挙されます(『吾妻鏡』同十一日条)。同上に、その面々の名と官が記載されています。左兵衛尉に千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)、右兵衛尉に三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重、左衛門尉に和田義盛・佐原義連・足立遠元、右衛門尉に小山朝政・比企能員の10人です。いずれも初期から頼朝に味方した、鎌倉幕府草創に欠かすことのできない功労者たちです。とりわけ三浦一族3人と他氏に抜きんでていることはこの一族の功績と政権内での実力を示すものといえましょう。ここに遠元も名を連ねていることは彼の功績も幕府創建に欠かせない存在であり、幕府を支える代表的な有力御家人であったことを示しています。『吾妻鏡』では遠元は「藤原遠元」と記載されていますから、彼の正式な氏は藤原となります。なお、この10人の正式発令は頼朝が京を離れた14日です(『玉葉』同十三日条)。ともかくその8氏は鎌倉幕府創建を担った氏族といえます。

こうして、遠元は第一次建久上洛において頼朝の信任厚い有力御家人の一人として十分にその立場を示しえ、面目を施したのです。

(続く)

(2005.12.25)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕― への3件のフィードバック

  1. hongling より:

    初めまして、日本にいる中国人です。歴史専攻で、今は中国で日本語の教師をしていらっしゃると理解していいかな?なら、私の中国にいた時の仕事と同じです。今日は友達と会うために、新横浜へ行ってきますよ。よかったら、私のブログにもいらっしゃってください。

  2. hongling より:

    再びお邪魔します。今先生のブログ写真を見て、私の知っている顔は何人もいましたので、驚いています。不思議な繋がりですね。

  3. 正大 より:

    beni312さん、はじめまして。ブログ拝見しました。「先生のブログ写真を見て、私の知っている顔は何人もいましたので、驚いています」とのことですが、どこでの写真でしょうか。

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