武蔵武士足立遠元(その5)―歴史雑感〔6〕―

五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―

1185(文治5)年3月24日の檀浦海戦により、平氏本宗は滅亡し、治承・寿永の内乱が終り、鎌倉殿源頼朝を頂点とする鎌倉武家政権(鎌倉幕府)の覇権がなります。この鎌倉幕府内において、足立遠元は「宿老」(『吾妻鏡』文治二年十二月一日条)として遇せられます。

『吾妻鏡』治承四(1180)年十一月二日条で、富士川合戦後の常陸国佐竹氏攻撃開始に際して、頼朝と「群議」を行った御家人、千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平以下を、「宿老」と記しているのが、その初見です。遠元が「宿老」と見える上述記事は、国元から出仕した千葉常胤が頼朝に盃酒を献じた席に列席した、千葉常胤・小山朝政・三善善信(問注所執事)・岡崎義実・足立遠元・安達盛長以下を「宿老」と記しています。次に遠元が「宿老」と見えるのは、文治三(1187)年九月九日条で、重陽節に比企尼亭の菊観賞に頼朝夫妻が訪れたとき、三浦義澄・足立遠元以下の「宿老」が供をしたとある記事です。

さて、以上が頼朝期に「宿老」として見える御家人です。千葉常胤と三浦義澄が鎌倉幕府創建の双璧であることは前回に述べてあるとおりです。土肥実平・岡崎義実は頼朝の反乱蹶起当初からの参加者です(『吾妻鏡』治承四年八月六日・二十日条)。安達盛長が頼朝流人時代からの側近であることはいうまでもありません。内乱途中で誅殺されましたが、上総広常の味方なくして、石橋山合戦に敗北した頼朝が房総半島での再起をなしえなかったことは周知のことです。頼朝の武蔵進出に際して、武蔵武士として最初に味方したのが遠元です。また、前回での勝長寿院供養に、常胤は嫡子胤正と共に供奉しているように、三浦義澄(平六義村)・土肥実平(弥太郎遠平)・岡崎義実(余一義忠、石橋山合戦で戦死)はそれぞれの嫡子を内乱期の『吾妻鏡』に登場させておりますし、遠元・盛長も年齢的に内乱終結の1185年時点で50代に達していたと考えられます。こうしてみれば、宿老とは、年齢的にも成熟して、内乱において当初から頼朝に味方し、その生死を共にした面々であり、頼朝の覇権の成就に欠くことのできなかった御家人ということができます。

1183(寿永二)年秋、鎌倉の源頼朝と京の木曽殿源義仲が対立します。この中、頼朝同母妹の夫一条能保は鎌倉に避難します。何時脱出したかは正確なところは不明ですが、平氏一門で京に残留していた池殿頼盛が同様に1018日に京を逐電します(『玉葉』同年十月二十日条)。そして、頼盛が子息二人と家人を引き連れて鎌倉に来着したことを伝える『玉葉』同年十一月六日条には、同時に能保が頼朝異母弟全成(義経同母長兄、今若)亭に宿したことを記しています。このことから、本来武家であり、武力を有していたと考えられる頼盛に同行して鎌倉に逃れたと考えるのが自然でしょう。こうして、前回の勝長寿院供養に能保正室が頼朝とともに主催したように、ずっと鎌倉に留まっていました。

勝長寿院供養を終えた夫妻がいよいよ本来の京に帰ることになりました。1186(文治二)年2月6日です(『吾妻鏡』同日条)。これに先立ち、1月28日、頼朝夫妻はその宿所に赴き、餞別を贈り、酒宴を催します。ここより能保夫妻は出発することになります。それが遠元亭なのです。(『吾妻鏡』同日条)先の『玉葉』の宿所とは異なります。鎌倉滞在が2年以上になっているわけですから、何度かその宿所を移ったと考えます。もちろん、それをできるのはそれなりの経済力を有した者でなければなりません。その意味で、遠元は有力御家人なのです。そして、能保夫妻が鎌倉滞在の最後を遠元亭で過ごしたということは、遠元が頼朝の信頼を如何に勝ち得ていたかを如実に表わしている証拠です。(その1)で示した遠元と藤原光能との姻戚関係を思えば、遠元が公家能保を接待するのに適任であったことはいうまでもありません。ともあれ、この酒宴は終夜に及び頼朝・能保夫妻は大いに歓談したことでしょうし、遠元も面目を施したことになります。

義朝追福の勝長寿院万灯会の沙汰人を、平賀義信・千葉常胤と務め(『吾妻鏡』文治四年七月十五日条)、後白河院一周忌の千僧供養の一方の奉行人(20人)を務めた(『吾妻鏡』建久四年三月十三日条)ように、仏事において主要な役割を果たしました。鎌倉内の仏事の供奉人においても御後に列しており(『吾妻鏡』文治四年三月十五日条、同五年六月九日条、建久三年十一月二十五日条、同五年十二月二十六日条)、その地位に変動はありません。

以上述べてきたように、鎌倉幕府内において、遠元は宿老として重きをなしていたのです。

(続く)

(2005.12.18)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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武蔵武士足立遠元(その5)―歴史雑感〔6〕― への2件のフィードバック

  1. より:

    はじめまして!成都今寒いでしょう^^

  2. 正大 より:

    はじめまして中国偉偉さん。まあ冬になりましたから、エアコンを入れています。それなりに寒いですが、東京よりも相対的には暖かいと思います。私はいまで股引は穿きません。

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