武蔵武士足立遠元(その4)―歴史雑感〔6〕―

四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列

武蔵国威光寺領に対する頼朝の裁定に遠元は連署しており(『吾妻鏡』文治元年四月十三日条)、公文所寄人として活動していました。しかし、翌(1186)年以降には、彼の寄人としての活動を示す記事は『吾妻鏡』に見られなくなり、また他の史料にもそれを伺わせるものは見あたりません。このことは、平氏滅亡により、一応の治承・寿永の内乱が終息し(本当の意味の終息は、1189年の奥州平泉藤原政権滅亡と、翌年の出羽国大河兼任反乱鎮圧を待たなければなりません。この1180年から1190年までを広義の治承・寿永の内乱として、治承・文治の大乱と称することにします)、鎌倉殿源頼朝政権が平氏追討の軍事体制から一応の平時体制となったため、公文所も軍事的押さえの意味を持つ遠元の存在よりも、実務執行能力を求められてきたため、彼はその第一線より引退いたことを示しているのではないかと考えます。遠元は本来の武士としての奉公に戻ったことになります。

1185(文治元)年3月24日の壇浦海戦で平氏本宗は壊滅し、治承・寿永の内乱は一応の終息を迎え、戦争の時から政治の時となりました。この中で、鎌倉殿源頼朝とその異母弟判官義経が対立したことは周知のことです。頼朝は、1024日、鎌倉に父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院=南御堂(後に廃寺となり、鎌倉市雪ノ下4丁目の滑川にかかる大御堂橋にその名を残しています)落慶供養を行います。これは、義経などではなく、頼朝が頼義・義家・義朝の正統な継承者であることを示すためのものであり、ここに源氏棟梁は頼朝であることを宣言するデモンストレーションでした。これ以前の18日に義経・行家に頼朝追討宣旨が下され、その報が22日には鎌倉に告げられていたのです。ですから、この落慶供養への参加は頼朝の麾下に入ることと同じなのです。

幸いなことに、『吾妻鏡』同二十四日条には頼朝に従った行列の交名が記載されています。この中に遠元も含まれているのです。この交名は、先頭に先(前)随兵14人、頼朝の御剣持役以下の三役、御後五位六位32人、次(後)随兵16人、そして次随兵60人(東西30人ずつで、南御堂に頼朝が入った後は門外東西に候います)です。当然これに列することは名誉であり、御後32人、先随兵14人と次随兵16人、次随兵60人の順で格が高いことになります。特に前三者が重要です。

それではこの具体的なメンバーを見てみましょう。先随兵は先頭列が畠山重忠(武蔵国秩父氏族嫡系)と千葉胤正(常胤嫡男)です(『吾妻鏡』は一行に4人列記していますが、実際の行列は2列縦隊と考えます)。2列目が三浦義澄(相模国三浦氏族嫡系)と佐貫広綱(上野国秀郷流淵名氏族)、3列目が葛西清重と八田知重(知家嫡男)、4列目が榛谷重朝(武蔵国秩父氏族)と加藤景廉(伊勢国・山木夜討参加)、5列目が藤九郎盛長と大井実春(武蔵国紀姓)、6列目が山名重国(義範男)と武田信光(甲斐源氏武田信義末男)、最後が北条義時と小山朝政(下野国秀郷流大田氏族)です。

三役は御剣役に長沼宗政(朝政弟)、御鎧着役に佐々木高綱(定綱弟・山木夜討参加)、御調度役に愛甲季隆(相模国横山党)です。

御後は先頭列が蔵人大夫源頼兼(源三位頼政男)と武蔵守平賀義信(義光流信濃源氏)、2列目が三河守源範頼と遠江守安田義定(甲斐源氏信義叔父)、3列目が駿河守源広綱(頼兼弟)と伊豆守山名義範(上野国新田義重男)、4列目が相模守大内惟義(義信嫡男)と越後守安田義資(義定嫡男)、5列目が上総介足利義兼(下野国源姓)と前対馬守藤原親光、以下8列目に因幡守大江広元(公文所別当)、11列目に判官代藤原邦通(公文所寄人)がいます。そして、13列目が千葉介常胤(下総国桓武平氏良文流)と東大夫胤頼(常胤末男)、14列目が宇都宮左衛門尉朝綱(下野国宇都宮氏族嫡系)と八田右衛門尉知家(常陸国朝綱弟)、15列目が梶原刑部丞朝景(景時弟)と牧武者所宗親(北条時政後妻牧方父)、最後の16列目が後藤兵衛尉基清(頼朝妹婿一条能保家人)と足立右馬允遠元となっています。

次随兵は先頭列が下河辺行平(下総国秀郷流大田氏族)と稲毛重成(武蔵国秩父氏族)、2列目が結城朝光(朝政末弟)と佐原義連(義澄末弟)、3列目が長江義景(相模国鎌倉氏族)と天野遠景(伊豆国南家工藤氏族・山木夜討参加)、4列目が渋谷重国(相模国秩父氏族)と糟屋有季(相模国藤原氏良方流)、5列目が佐々木定綱(近江国守護・宇多源氏・山木夜討参加)と小栗重成(常陸国桓武平氏大掾氏流)、6列目が波多野忠綱(相模国秀郷流)と広沢実高(相模国秀郷流)、7列目が千葉常秀(常胤孫)と梶原景季(景時嫡男)、最後が村上頼時(頼清流信濃源氏)と小笠原長清(甲斐源氏信義弟信濃守加賀美遠光男)です。

以上の他に、交名には見えませんが、主要な役割を果たした武士に、供養中に門外に位置して行事を行った侍所別当和田義盛(義澄甥)と所司梶原景時(相模国鎌倉氏族)がいます。それに、布施として献納した鞍付の馬10匹を引いた武士の中に、比企能員・土肥実平(相模国中村氏族)・工藤祐経(伊豆国南家狩野氏族)・岡崎義実(相模国三浦氏族)・狩野宗茂(伊豆国南家狩野氏族)・中条家長(武蔵国横山党)・工藤景光(伊豆国南家工藤氏族)が見えています。

以上に見える人々は当該期の鎌倉政権を構成する主要メンバーを総揚げしたものといってよいものです。その序列から政権内での地位・実力が窺えるのです。すなわち、この行列で占める位置は鎌倉政権内での地位・実力を反映していると考えます。では、遠元の位置を考えてみましょう。まず、遠元のいる御後は有位者で構成されており、それが五位・六位の順となっていることです。さらに、五位では頼兼以下義兼までの源家御一族(門葉)受領を最初に並べ、次いで親光以下広元までの受領級の頼朝縁者・京出身者と続き、さらに五位六位の源家御一族と京出身者が混在して続き、最後を遠元を含む武士=御家人8人が締めています。この京出身者の中には広元に代表される文士=文吏寮(五味文彦氏『武士と文士の中世史』1992年東京大学出版会参照)も含まれています。以上のように、御後は五位六位の順を基本としながらも、源家御一族・京出身者(文士を含む)・御家人の3グループによって構成されて、源家御一族受領を先頭に位置させ、御家人は最後に一つの集団を作っていたのです。これにより、源家御一族受領が政権内で最高の格であったことが理解できます。彼らは鎌倉殿頼朝の補翼として、その後継者の資格を有した、言い換えれば頼朝の競争者(源氏棟梁有資格者)ともなりえる存在でもあったのです(彦由一太氏「鎌倉初期政治過程に於ける信濃佐久源氏の研究」『政治経済史学』3001991456月参照)。

さて遠元を含む御家人です。筆頭の千葉常胤は、石橋山合戦に敗北して房総にかろうじて逃れた頼朝のもとに子息を挙げて味方し、この時に「すべからず司馬(常胤)をもって父となすべし」と頼朝に言われた(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)ほど、頼朝が頼りにした下総国の豪族的御家人です。治承・寿永の内乱において、その後、範頼軍に従軍して九州まで遠征し軍功を挙げます。1189(文治5)年の奥州兵乱(合戦)においては、東海道大将軍として出陣しますが、事前に恩賞第一番と約束されていたのです(『吾妻鏡』文治五年九月二十日条)。軍功においても目覚ましいものがあり、頼朝の信頼も厚い彼は御家人実力トップといってよく、その彼が武士の筆頭に列するのは自然でしょう。このことは、彼に肩を並べているのが末男の胤頼であることからも窺えます。父子揃っているのは千葉氏だけです。頼朝挙兵前に三浦義澄とともに胤頼自身は伊豆国北条にいる頼朝を訪れ、密談を行っており(『吾妻鏡』治承四年六月二十七日条)、この会談は頼朝の挙兵に大きな影響を与えており、千葉氏の頼朝味方に彼自身は大いに功があったのです。ここに、千葉氏に対する頼朝の配慮が如実に表われていると思います。先随兵第1列の常胤嫡男胤正・次随兵7列の孫常秀も含めれば、千葉氏が御家人ナンバーワンであることは動かせないところです。この表徴が御後武士の筆頭です。

次いで第2列は宇都宮朝綱・八田知家兄弟です。朝綱は下野国宇都宮(二荒山神社)社務職として守護小山氏に並び、壇浦海戦後に平清盛の一の側近平貞能を匿いその助命を頼朝から勝ち取った(『吾妻鏡』文治元年七月七日条)ほどの実力者です。知家は常陸国へと進出し、奥州兵乱には千葉常胤とともに東海道大将軍を務め、同国守護になります。このように両人は有力御家人として重きをなしていますが、とりわけ奥州に接した下野・常陸両国の有力御家人として対奥州藤原氏戦を意識した配慮として、両人を重視して列したと考えます。義経と奥州藤原氏の軍事連携による攻勢が鎌倉殿頼朝にとって最大の脅威であったのですから。

第3列は梶原朝景と牧宗親です。石橋山合戦敗戦後の山中での頼朝見逃しのエピソードで象徴されるように、帰参後に頼朝の信頼を勝ち取った梶原景時はその側近第一でありましたが、侍所所司として総括責任を努めて、行列に加わることができませんし、自身は平三景時として無位ですからその点でも参列できません。ですから、刑部丞朝景は弟として景時の代理と考えます。宗親は北条時政後妻の牧方の父です。北条氏は先随兵に下野国守護の小山朝政とともに時政嫡男の義時が最後尾に列していますから、有力御家人の位置を占めていることになり、それなりの待遇に処せられていることが分かります。本供養は父義朝の菩提を弔うものとして、頼朝一家個人の側面もありました。そのため、供養においては、南御堂の前の左右に仮屋を設けて、左方に頼朝が、右方に公家の一条能保正室(頼朝同母妹)と正室北条政子が座しました。このことは、父義朝の正統な血を継ものとして、頼朝と同母妹が弔う主催者であることを形式上からも明示させたものです。このように、両正室を特別に遇したのです。これに対応して、本来ならば、頼朝舅家の北条氏としては当主の時政が列すべきなのでしょうが、四郎時政と無位であり、列席できません。景時と同様です。姻戚関係で有位者であった武者所宗親が時政代理として列したと考えます。

第4列は後藤基清と遠元です。基清は能保の家人ですが(『吾妻鏡』同年五月十七日条)、讃岐守能保の目代を務めているように(『鎌倉遺文』第1巻三四九号)、その有力家人として京を活動の場としていました。したいがいまして、彼は能保=頼朝妹の家人を代表して列したと考えます。同時に、在京武士の有力者として対義経戦を睨んだともいえます。

以上のように御後の御家人を考えてくれば、宗親・基清を除けば、いずれも関東の名だたる有力御家人たちです。遠元がこれに列したということは、彼もまた彼らに伍した有力御家人であったことを示します。この時点での関東内の有力御家人の一人が遠元なのであり、武蔵国御家人を代表していたといってよいでしょう。ここに、武蔵・相模・下総・下野と、鎌倉政権を支える主要国の御家人代表が顔を出したことになります。

ここで、比較のため、建久上洛から帰還した直後に行われた建久二(1191)年歳首垸飯の沙汰人を見てみましょう。歳首垸飯(家臣が主人に酒食を饗応する儀式)はこれ以後恒例儀式として行われるようになり、幕府の実力者がその沙汰人となりました。『吾妻鏡』同年正月条にはその沙汰人が記載されており、元旦千葉常胤・2日三浦義澄・3日小山朝政・5日宇都宮朝綱で、所見しない4日は畠山重忠と推定されて、この序列は御家人の地位・実力を反映したものです。(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446200310月)いずれも御家人を代表する有力者で、豪華な顔ぶれです。

勝長寿院落慶供養行列と比較するに、先随兵最終列に小山朝政・御剣役に長沼宗政・次随兵2列目に結城朝光と兄弟3人が揃い、さらに次随兵先頭列に同族の行平も列している小山氏はともかくとして、三浦氏の位置が低いことが分かります。すなわち、惣領の義澄は先随兵の2列目、末弟義連が次随兵2列目です。明らかに宇都宮氏や小山氏より下に位置しています。鎌倉政権樹立に当たって、三浦氏は千葉氏と双璧をなす一族です。ですからこそ、歳首垸飯では千葉氏に次いで2日の沙汰人を務めたのです。なぜこのような序列になったかは不思議といえるでしょう。

一応ここまで御家人の行列序列からその地位・実力を考えてきました。そのことから、遠元が御後最後尾列・叔父盛長が先随兵5列目に列していることで、足立氏が関東でも有数の実力を有していた御家人であることが理解できます。同時に、遠元はこの供養において布施の鞍付馬の1番引役を千葉常胤とともに務めており、重なる名誉として千葉氏に肩を並べるような、まさしく、足立氏は頼朝の信頼厚い、武蔵国を代表する御家人なのです。

この回を終えるに当たって、皆さんは、次随兵が16人なのに、先随兵が14人と少なく、同数ならば足せば御後32人と同数になることにお気づきでしたか。この数は不自然でしょう。そうです、事前には先随兵も16人に予定されていたと考えます。すなわち、供養前日に随兵予定の河越重房(武蔵国秩父氏族)が義経縁者、義経正室が重頼(重房父)の娘故に、除かれていたのです(『吾妻鏡』文治元年十月二十三日条)。このため、重房と同列するはずの某(それが誰であったかは想像してください)もはずされて、先随兵が当初の16人から14人に減ったと考えます。したがって、数が揃っていないのです。

今回は勝長寿院落慶供養の行列の御家人分析が主体となり、遠元自身については脇に回りましたが、次回は頼朝期の遠元の軌跡を述べたいと思います。

(続く)

(2005.12.02)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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