武蔵武士足立遠元(その3)―歴史雑感〔6〕―

 

三、治承・寿永の内乱における遠元

1180(治承4)年8月、伊豆国に挙兵した源頼朝は、相模国石橋山合戦に一敗地にまみれ、海を渡り安房国に逃れ、房総半島の雄千葉常胤・上総広常の与力をえて、10月2日、3万余騎と称する大軍でもって武蔵下総国境の隅田川を渡り武蔵国に進出しました。

この日、当地の豊島清光と葛西清重とが頼朝陣営に参加しました。同時に、足立遠元が、兼ねてからの命を受けたとして参加しました。そして、鎌倉に入った頼朝が鶴岡八幡宮に参詣した翌日、8日、遠元は武蔵国足立郡(郡司職)を本領安堵されたのです。足立郡の一円支配するのが遠元なのです。頼朝麾下の武士たちに本領安堵などの行賞が行われたのは、富士川合戦後の1023日で、これには北条時政・千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平などが含まれていました。遠元への本領安堵は最初の例なのです。他の武蔵武士への本領安堵は、常陸国の雄義光流の佐竹氏攻撃に一応勝利し、1212日、大倉新御所に入御し、鎌倉の地に独立した政権を発足させた直後の、14日なのです。このようにして見れば、遠元への本領安堵が如何に厚遇であったが理解できます。

何故に、遠元がかかる厚遇をえたのでしょうか。この点に関して、『吾妻鏡』同年十月八日条は「日者(頃)労あるの上、最前の召しに応じ、参上の間」と記述しています。この記事のキーワードは「労」と「最前・参上」の二つです。

「労」とは労績のことであり、これは具体的に何でしょうか。(その1で述べたように、都の後白河院の近臣藤原光能に娘を嫁がせているという、特別な縁故を遠元は中央に有していました。周知のように、頼朝のもとへは、母が頼朝乳母の妹という縁から、三善康信(初代問注所執事)が中央情勢を月に三度も通信していたのです。ここで、遠元の叔父が盛長であることを思い出してもらいます。盛長は比企尼の婿として頼朝に近仕していました。とすれば、院近臣の光能は中央の機密を知ることのできる立場にあることから、光能・遠元・盛長のラインは康信以上に中央の機微に接した情報を頼朝にもたらすことが可能であったといえます。そうです、遠元は康信以上に有力な中央情勢へのパイプだったわけです。同時に、比企ファミリーの一員として、日頃からあれこれと頼朝の生活を支えていたと考えます。以上が「労」の具体的内容なのです。

「最前・参上」とは文字通りに武蔵武士として最初に頼朝陣営に参軍したことを意味します。が、それ以上と考えます。遠元が参軍した日、同時に豊島清光と葛西清重が参軍しています。下総国国府(千葉県市川市)から大井川(江戸川)を渡り、武蔵国へと向かわんとする頼朝軍にとって、豊島氏は豊島庄(東京都北区上中里辺等)を名字の地とし、葛西氏は下総国葛西御厨(東京都葛飾区)を名字の地として、その進路を扼していました。そして、彼らの参加に次いで、江戸重長の参加を招き、武蔵国に頼朝が進出し、さらには当初は敵対していた武蔵最大の豪族畠山重忠以下の秩父氏族が味方になることで、雪崩現象を起こし、南関東を制覇した頼朝が鎌倉に入城したことは周知のことです。このように、清光・清重の参軍は武蔵武士の頼朝軍への参加の端緒となったのです。では、この清光・清重はどうして頼朝陣営に参加したのでしょう。もちろん、房総半島を席巻して勢力を拡大させた頼朝軍自身の実力が根本です。ですが、事前に頼朝側から彼らに接触を図った者もいたはずです(『吾妻鏡』同年九月二日条では、味方になるように頼朝が手紙を出した武士の中に清元・清重も入っています)。重長誘引に使者を発したように(『吾妻鏡』同上二十八日条)。これに力となったのが、豊島氏と縁戚関係を有したといえる遠元ではないかと考えます。すなわち、遠元は自ら頼朝軍に加わることを決めるとともに、清光に参加を呼びかけたと考えます。『笠井(葛西)系図』(続群書類従系譜部所収)などの多くの系図では清光・清重を父子関係としていますが、その当否は別として、豊島・葛西氏が同族であることは疑えないでしょう。とすれば、清光を遠元が誘ったことは彼らの参加を促したことになります。したがいまして、「最前・参上」とは、遠元自身のみならず、清光・清重を参加させた功績も含まれていたと考えます。

以上考えてくれば、遠元の功績は合戦の場(軍功)ではありませんが、それに上位する政治的立場から見て他に抜きんでいたと理解できます。それ故に、彼は真っ先にしかも単独で本領安堵を受けたわけです。

かくて、(その1)でも述べたように、頼朝陣営に入った畠山重忠に娘を嫁し、比企ファミリーとして武蔵国支配の一員にともに列し、鎌倉殿源頼朝政権において、重要な一員となったのです。1184(元暦元)106日、公文所が創設され、遠元は寄人に任命されます(『吾妻鏡』同日条)。この公文所の創設と20日の問注所設置は鎌倉幕府成立のメルクマールとなりうる政治的劃期でありますが、正月の木曽殿源義仲戦死、4月の甲斐源氏棟梁一条忠頼謀殺に表われた、頼朝の鎌倉軍権に対抗しえた中部日本を支配してきた甲斐・信濃源氏ブロックの解体により、頼朝の武家棟梁として位置が完全に諸源氏に抜きんでることができたことが、かかる統治機構の整備をもたらしたと指摘するだけに止めておきます。さて、同時に、別当に因幡守中原(大江)広元、寄人に齋院次官藤原(中原)親能・主計允二階堂行政・甲斐四郎大中臣秋家・判官代藤原邦通が任命されました。5人はすべて吏僚としての才のあった人物として知られています。武士ではなく文士なのです(五味文彦氏、『武士と文士の中世史』一九九二年東京大学出版会)。武士として任命されたのは遠元一人ということになります。

では、なぜ遠元が任命され、これらメンバーの人選にはいかなる意味があるのでしょうか。この点は、すでに拙稿において考察しているので、その結論のみを示します。3点あります。第1は、解体した中部日本軍事ブロック(甲斐・信濃源氏)の下にいたと考えられ、その内部に精通していた行政・秋家を構成メンバーに加えることで、その下に結集していた武士への、行政的な逆編成の切り込み役としての役割を果たさせることです。第2に、武蔵有力武士の遠元に代表されるように、武蔵武士団の掌握に力点があり、同時に、彼と縁戚関係にある親能が相模国で生育したことで同国武士への繋がりを有しており、同国武士への目配りもし、幕府の中核である武相武士団掌握を基本としていることです。第3に、遠元の縁者である局務経験者としての練達した行政官僚である広元を筆頭に据えることで、行政機関としての実務執行能力に万全を期していることです。こうしてみると、公文所の構成メンバーは、甲斐グループとでもいうべき行政・秋家と、遠元グループとでもいうべき遠元・広元・親能・邦通の、異なる二つの出身者からなることが理解できます。

治承・寿永の内乱において、『吾妻鏡』や『平家物語』を見ると、遠元は西国への戦いに出戦した記載がありません。むしろ、公文所寄人に任命されたこともそうですが、1183(寿永2)年8月の平氏都落ちで京に残り、その後鎌倉に下ってきた平頼盛(清盛弟)が帰洛する餞別の宴に、「京都に馴れるの輩」として遠元が参席する(『吾妻鏡』元暦元年六月一日条)ように、鎌倉内での活動しか記載されていません。この点、叔父の盛長も同様です。同じ武蔵国の有力武士の畠山重忠や比企能員が出戦していたのとは異にします。これらのことは、遠元らの足立一族は出戦することなく関東内に位置して、鎌倉殿源頼朝の親衛隊としての役割を果たしていたと考えます。足立一族と頼朝との繋がりを考えればこれは自然なことです。

(続く)

(2005.11.19)

 

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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