武蔵武士足立遠元(その2)―歴史雑感〔6〕―

二、平治の乱の遠元

遠元はその誕生も死去も史料には見えていません。何時生まれ何時死んだかは不明なわけです。ただ、前回に述べてあるように、叔父盛長より年長と推定できますから、1135年以前に生まれたことになります。その彼が歴史に登場するのは、平治の乱(1159年)です。彼のことは『平治物語』に出てきます。ご承知のように、この年12月9日夜、平清盛の熊野参詣の留守を付いて、権中納言藤原信頼がクーデターを起こします。平治の乱の開始です。この軍事力の中核となったのが源義朝です。彼
らは三条殿にいた後白河上皇を大内裏に監禁し、三条殿を焼払います。実権を握った信頼は除目を行います。『平治物語』には日付を明記していませんが、物語に書かれていない頼朝の右兵衛権佐任官の日付(『公卿補任』文治元年条源頼朝尻付)から、それは14日です。首謀者の権中納言信頼は大臣兼近衛大将、左馬頭義朝は播磨守を兼ねます。『平治物語』上に見える任官者の中で、公卿の信頼は別格として、義朝以下の源末実(文徳源氏)までの5人が五位(受領級)以上の軍事貴族で、六位(侍級武士)は鎌田次郎正清(義朝乳母子)の兵衛尉と遠元の右馬允の二人だけです。この除目が実際に行われたものか、物語だけに絶対的な信憑性に欠けますが、1190(建久元)年の第一次頼朝上洛に際して、左衛門尉に任官する(後述)まで、『吾妻鏡』では1180(治承四)年初出記事(後述)から一貫して「右馬允」遠元と表記されていますので、それは信頼できると考えます。とすると、義朝とともに最期を遂げるという、義朝の一の郎等正清(『愚管抄』巻第五)と並んで、遠元が任官に名を連ねた意味をどう考えるのでしょうか。

さて、『平治物語』上・源氏勢沙への事が示す義朝軍交名から武蔵武士を見ますと、長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・金子家忠そして足立遠元です。ここで、遠元だけが郡級武士で、その他は全て郷村級武士です。武士団としての実力に明らかな差があります。すなわち、武蔵武士の中核は遠元ということになります。ここに、義朝軍の編成に関して、武蔵国知行国主であった信頼の同国武士の動員が主力であって、必ずしも彼等が義朝の郎等ではなかったとの説(元木泰雄氏、『保元・平治の乱を読みなおす』2004年NHKブックス参照)が示されております。とすれば、なおのこととして武蔵武士の参加に行賞を与える必要があるでしょう。その第一候補が参加武蔵武士中の実力一の遠元であることはいうまでもないでしょう。そうです、正清が義朝一の郎等として任官したように、彼は武蔵武士の代表として右馬允に任官したと考えます。すなわち、二人は頼朝軍の構成メンバー、郎等と武蔵武士のそれぞれの象徴としての任官なのです。もちろん、『平治物語』の除目記事に頼朝の名が見えないように、彼ら以外に侍級の任官者が存在していたかもしれません。

遠元は、この時30歳前後と推定される、武士としても働き盛りの時期でしょう。ところで、『平治物語』中・六波羅合戦の事には、遠元に関する記述があります。26日、大内裏の義朝軍に六波羅の清盛軍が攻撃し、合戦します(『百練抄』同日条)。清盛軍の攻撃を受け止め、六波羅へと義朝軍は逆襲します。この時、武蔵武士の村山党金子家忠は矢も尽き刀も折れてしまいます。ここに遠元が通りかかり、家忠は替太刀を所望します。替太刀を持っていなかった遠元は、前方にいた自分の郎等の太刀を取って、与えます。家忠は喜んで敵と戦います。一方、郎等は主の遠元を恨みます。そこで、遠元は郎等を待たせ、敵に矢を射て、見事に仕留めるや、馬から下りてその太刀を取って引っ返してから、郎等に、「おまえは短気だ。そら太刀だ」と言って、渡して自分の前を駆けさせます。このエピソードにおいて、中国の故事を引いて、それとの比較においても、遠元の行為を褒めています。これが事実であるかは定かではなく、むしろ説話の色が濃いと思います。しかしながら、合戦の経緯において、義朝側を長男の悪源太義平、清盛側を嫡男重盛に代表させて描写しているのは別として、侍級武士で描写されているのは、義平にしたがった正清を除き、遠元だけといってよいのです。他の義朝の武士は基本的には交名に出てくるだけなのです。以上、遠元が武士としては『平治物語』の記述において傑出した存在であることがお分かりでしょう。

以上の如く、除目といい合戦におけるエピソードといい、『平治物語』は遠元の存在を浮かび上がらせており、このことは遠元の武蔵武士の代表として反映の記述と考えます。

合戦に敗北した義朝軍は東国へと落ちてゆきます。竜華越え(京都市大原から国道367号で北上し滋賀県に入り、477号で逆に南下して堅田に至る)にて、前途をふさぐ叡山横河の法師を破りますが、近江国堅田浦(滋賀県大津市)で軍を解散します。これ以後、義朝に随行するのは義平・朝長・頼朝(以上息男)、源重成(従兄弟・濃尾源氏)、平賀義信(信濃源氏)、鎌田正清・渋谷金王丸の7人です。波多野義通・三浦義澄(以上相模武士)、長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・足立遠元・金子家忠(以上武蔵武士)、上総広常(上総武士)以下の20人は各自が落ち延びることになりました。この歴名は頼朝軍の主力が武蔵武士であったことを表わしています。ともあれ、遠元は名字の地である武蔵国足立郡へと帰って行き、歴史の表面から消えることになります。

(続く)

(2005.11.12)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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