武蔵武士足立遠元(その1)―歴史雑感〔6〕―

(その1) 一、遠元の系譜(2005.11.06)

(その2) 二、平治の乱の遠元(2005.11.12)

(その3) 三、治承・寿永の内乱における遠元(2005.11.19)

(その4) 四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列(2005.12.02)

(その5) 五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―(2005.12.18)

(その6) 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―(2005.12.25)

(その7) 七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―(2006.01.05)

(その8) 八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元(2006.04.08


一、遠元の系譜

少し歴史、とりわけ鎌倉時代に興味ある人ならば、幕府草創期の武蔵武士といえば、畠山重忠や熊谷直実を頭に浮かべるでしょう(大河ドラマ「義経」には登場していないようですが)。これにひきかえ武蔵武士足立四郎遠元の名を知る人は少ないでしょう。実は、遠元は重忠とは密接な縁があるのです(このことは後で詳説します)。そこで、今回は足立遠元を取り上げたいと思います。

治承・寿永の内乱期の遠元に関しては、拙稿として、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」『政治経済史学』156、157号1979年5月、6月があります。今回は、拙稿で述べてあることは、基本的には結論のみを示すことで、細部の考証は拙稿をお読みください。

さて、足立遠元の名乗りから、遠元の名字の地は武蔵国足立郡です。足立郡はほぼ関東平野の中央に位置し、東を元荒川、西を荒川に挟まれて、埼玉県吹上町を北限に、鴻巣・北本・上尾・さいたま・川口市などを含み、東京都足立区を南限とする、江戸時代には66か郷と称された武蔵国でも屈指の郡域の広さがありました。この領主が遠元であったわけです。

拙稿に於いて、『尊卑分脉』を分析しその出自と系譜を考察しました。新訂増補国史大系『尊卑分脉』第二篇頁285以下に魚名後裔山蔭流として秋田城介(安達)氏が載せてあります。「小野田三郎」兼盛以降の系譜記載については信頼性を認めることができますが、その子として記載されている「安達六郎」盛長・「安達藤九郎」遠兼は、実はその兄弟順が逆で、六郎遠兼・藤九郎盛長となることを立証しました。ここに於いて、嫡系は兼盛・遠兼・遠元(基)と続き、藤九郎盛長(安達氏祖)は遠元の叔父となります。そして、次に述べる遠元の娘と藤原光能の間の子知光が1168(仁安元)年生まれから考えて、1135(保延元)年生まれの盛長に比して、遠元は年長と推定します。しかし、『尊卑分脉』のいう国重と兼盛との親子関係に関しては確実性がなく、足立氏の真の出自が山蔭流であるかどうかは分かりません。すなわち、太田亮氏(『姓氏家系大辞典』第一巻120頁1963年)の言うように武蔵国造の後裔、つまり土着豪族の子孫か、それとも中央貴族藤原氏の子孫かは明瞭ではないのです。

遠元の嫡子は八郎元春でありますが、歴史上の観点から、見逃せないのはその女子です。遠元には3人の女子が確認されます。まず、『尊卑分脉』に唯一人所載されている女子です。彼女は参議藤原光能に嫁して知光・従二位光俊を生みます。出自からいうと光能は道長の子長家後裔で、叔母豪子の夫右大臣公能の養子となり、また歌人として名高い定家と従兄弟です(『尊卑分脉』第一篇頁177、285~92参照)。同時に、平氏の治承三年クーデター(1179)で、子の知光とともに解官の憂き目を見るという、後白河院の近臣であったのです。これに加え、妹は以仁王の子真性の母です。以上により、光能は公卿として後白河院政の近臣であり、以仁王身内でもあり、京都政界の中枢に位置していたのです。このことは、遠元が単なる田舎武士ではなく、京都に強いパイプを持っていたことを意味します。ただ彼女がどのようにして、光能と結ばれたかは史料上に見えていないため想像するしかありません。知光が1168(仁安元)年に誕生していますから、それ以前といえます。

次に、畠山重忠に嫁した女子です。彼女は小次郎重秀を1183(寿永2)年に生んでいます。この時重忠は20歳ですから、おそらく初婚ではないかと考えられます。すなわち、治承・寿永の内乱の発生後(1180年)、重忠が頼朝麾下に入ってから、武蔵の有力武士を結びつけるべく頼朝の斡旋のもとに両者の婚姻がなされたと考えるのが至当です。

最後が北条時政の子五郎時房(後の初代連署)に嫁した女子です。彼女は三郎資時を1199(正治元)年に、嫡男四郎朝直を1206(建永元)に生んでいます(『関東評定衆伝』続群書類従補任部所収)。時房は1189(文治5)年に15歳で頼朝御前において元服します(『吾妻鏡』同年四月十八日条)。時房長男の時盛は1197(建久8)年生まれですが、その母は不明で、彼は嫡男になれなかったことから、母の出自は低く側室腹と考えます。ともあれ、両人の結婚は建久年間にはなされたことになります。論証は省きますが、その当時の足立氏と北条氏の実勢力を考えると(北条時政が嫡系でなかったことに関しては、杉橋隆夫氏、「北条時政の出身」『立命館文学』五百号1987年3月参照)、この婚姻は足立氏から持ちかけたものというより、北条氏から接近したと考えます。

ここで視点を変えて、遠元と盛長が甥叔父関係であることから、盛長の周辺を見てみましょう。まず、1135(保延元)年生まれの盛長と比較して、遠元は年上と考えることができることを確認しておきます。先年のNHK大河ドラマ『草燃える』(武田鉄矢)や今年の『義経』(草見潤平)で描かれているように、頼朝の伊豆流人時代からの側近が盛長です。その盛長の妻は頼朝乳母の比企尼の長女です。比企尼は、伊豆に流された頼朝を扶助し続けたことは、大河ドラマでも描かれており、頼朝が心から頼りにした恩人です。『吉見系図』(続群書類従系譜部所収)の分析から、比企尼の3人の女子は、長女が盛長に、次女が武蔵国有力豪族の河越重頼(平家期の秩父氏嫡系)に、三女が伊豆国有力豪族の伊東祐清に嫁して、この婿たちが流人頼朝を扶助したのです。ですから、盛長は頼朝の側にいたわけです。1183(寿永2)年5月の加賀国篠原合戦で平家方として祐清は戦死します。その後、三女は信濃源氏の平賀義信と再婚して朝政を生みます。盛長の女子が頼朝の異母弟範頼、重頼の女子が義経へと嫁ぎます。彼女たちは比企尼の女子の所生とするのが至当でしょう。

こうして頼朝兄弟は比企尼の身内となるのです。同時に、治承・寿永の内乱が平氏の滅亡で終わった文治年間に入ると、比企尼をめぐる縁戚関係者は、武蔵国知行国主鎌倉殿源頼朝を頂点に、武蔵守平賀義信・留守所総検校職畠山重忠、比企郡領主比企能員(比企尼甥))・足立郡領主足立遠元と、武蔵国支配を覆うのです。さらに、頼朝の後継者頼家の乳母も重頼妻(比企尼次女)・義信妻(比企尼三女)・能員妻と、梶原景時妻を除けば、比企尼身内なのです。このように、頼朝・頼家父子は比企尼縁戚者に蝟集されているのです。この比企尼縁戚者集団を比企ファミリーと名付けます。比企ファミリーは鎌倉殿(将軍)とその支配の中核地域である武蔵国支配を掌握しているのです。

遠元の出自と系譜の終りに、拙稿では検討していなかった「丹波足立氏系図」(『上尾市史』第6巻通史編上2000年参照)を検討してみたいと思います。これは、丹波国氷上郡佐治庄(兵庫県丹波市青垣町佐治)に西遷した足立氏庶流が江戸時代に残した系図です。これでは太政大臣良房の孫高藤の後裔と遠兼をしています。同じ藤原氏でも、『尊卑分脉』の山蔭流とは異なり、遠兼の父も忠兼としており異なります。同時に、盛長とその系は載せておりませんから、純粋に遠元とその子孫のみを載せているのです。この遠兼以前がその記載から信頼性に欠けることは『尊卑分脉』と同様です。したがいまして、本系図からも足立氏が藤原氏出自であるかは決定できないのです。

改めて遠元の傍注を見ますと、「号足立、豊嶋平傔仗泰家女、外祖父泰家譲与足立郡地頭職、仍一円知行之、」とあります。これは『尊卑分脉』にはない記述です。まず遠元の母が武蔵国豊島郡(東京都豊島区)の武士豊島泰家の女子であることです。次いで、遠元の足立郡地頭職は泰家が譲ったものです。すなわち、足立郡地頭職はもともと豊島氏のものであったことです。前者については遠元の母に関する所見があるのは本系図のみですから、信用できるかどうかの問題です。後者に関しては、まず豊島氏について考えてみてからです。豊島氏は桓武平氏良文流の後裔として諸系図に載せられており、異同はありますが武蔵国の大族秩父氏の分流となっています。治承・寿永の内乱において、石橋山合戦に敗れ、再起を期して房総半島に逃れ、千葉・上総両氏の参加により武蔵国に進出した頼朝のもとに、泰家の子清光(元)は武蔵武士として真っ先に参加しました(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)。この時、遠元も同時に参加しました。しかし、勝長寿院(頼朝の父義朝奉葬地)落慶供養の供奉人行列において、清光は権守(おそらくは武蔵国の)という官位を帯びながらも、先陣随兵(14人、先頭畠山重忠・最後尾小山朝政)・御後五位六位(32人、先頭源頼兼・最後尾足立遠元)・後陣隋兵(16人、先頭下河辺行平・最後尾加々美長清)のいずれにも列せず、その後となる次隋兵(東西それぞれ30人)の西方1番に甘んじていたのです(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)。このことは、武蔵国で真っ先に参加したにもかかわらず、最初は敵対して三浦義明を戦死させた畠山重忠の下座に位置するという、豊島氏が千葉・三浦・畠山氏などの有力御家人よりランク下に位置づけられていたことを示します。それは豊島氏の実力の反映といってよいでしょう。本系図の示すとおりだとすると、名字の地である豊島郡よりも広大な地である足立郡を遠元に譲与しても、豊島氏の所領は足立郡を凌駕していたはずです。とすれば、遠元と同じ最前参加の功があり、実力的にも凌駕していたはずの清光が遠元の下風に甘んじていたことは矛盾します。本系図の示すところ、すなわち泰家が遠元に足立郡を譲与したという記述は信頼できないとするのが、この矛盾を解決することになります。ともあれ、足立郡の豊島氏から遠元への譲与は否定されました。しかし、このことで豊島氏と遠元とが姻戚関係になかったことまで否定されるわけではありません。『尊卑分脉』での遠元の脇注に「号外嶋」とあり、これらのことを考えると、遠元が豊島氏と何らかの縁戚関係があったと考えて差し付けないでしょう。

次に、遠元の男子として元春・遠光・遠景・遠村・遠継(元春・遠景・遠村は『尊卑分脉』にも)が記載されており、その傍注に見える「淵江」・「安吉須」・「河田谷」・「平柳」などは足立郡内の地名を示しており(例示、淵江は現東京都足立区保木間)、遠元の子孫が足立郡内に分布した反映と考えてよいです。

最後に、佐治庄を拝領したとの傍注のある遠政(丹波足立氏の祖とされます)の父遠光の傍注に、「母三位頼政之女二条院讃岐子也」とある点です。これは摂津馬場源氏の嫡系、源三位頼政(周知のように治承・寿永の内乱の火付け役として宇治川に敗死)の女子で、『百人一首』九十二番の二条院讃岐のことです。ただし、「子」とあるから二条院讃岐の女子ということになります。二条院讃岐自身は葉室流の祖顕隆の孫藤原重頼の妻として重光らを儲けていますし(『尊卑分脉』第二篇頁97)、歌人として活躍しています(13世紀初頭の「千五百番歌合」に参画している)から、彼女が遠元に嫁したとは思えません。重頼は妻が讃岐の縁からか、前述の勝長寿院供養では御後五位六位に列しているなどして、親鎌倉派公家として平家没官領を知行しています(『吾妻鏡』文治四年十一月二十二日条)。とするなら、当該期の女子の表記の通例からすると、「重頼女」とするのが自然なのに、特段の理由もなく女性側、「讃岐子」とするのは不自然であります。作為が感じられるのです。ここに、この傍注が本来の系図にあった記載ではなく、後世の追加的なものであると判断します。とすれば、何らかの理由で百人一首で名の通った二条院讃岐をはめ込もうとしたが、時代的に不自然なのでその女子としたと考えます。かくして、母云々の記載は信用しかねます。

以上見てきたところでは、「丹波足立系図」の傍注記載は名字表記を除き信頼性に欠けるものといわざるをえません。したがって、その遠兼以前の系譜においても信用できるところではありません。

(続く)

(2005.11.06)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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