木曽殿源義仲を討ち取ったのは誰か―歴史雑感〔5〕―

1184(元暦元)年正月20日、近江国粟津(大津市)で木曽殿源義仲が、鎌倉殿源頼朝の派遣した東国軍によって戦死したことは周知のことです。では、誰が義仲を討ち取ったのでしょうか。

まず、義仲を討ち取った武士名を載せている史料を示します。

①『愚昧記』元暦元年正月廿日条―九郎義経郎従字石田二郎

②『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条―相模国住人石田次郎

③『延慶本平家物語』第五本之九―相模国住人石田小太郎為久

④『愚管抄』第五―(義経郎等)伊勢三郎

なお、『平家物語』諸本では、基本的には、読み本系は石田小太郎為久、語り本系は石田次郎為久となっています。以上により、義仲を討った武士として、石田為久と伊勢三郎との二人が上がります。

『三浦系図』(『続群書類従』第六輯上系譜部所収)によれば、三浦義明の弟芦名三郎為清の子に、三郎二郎為景があり、その子に「号三浦石田次郎」為久がいます。彼には「木曽義仲討取者」との傍注もあり、「石田次郎」とは、相模国愛甲郡石田郷(伊勢原市石田)を名字の地とした三浦一族の石田次郎為久のことであることが分かります。そして、彼はこの義仲討取り関係史料にのみ所見し、以後はその姿を見せません。

「伊勢三郎」は「源義経侍伊勢三郎能盛」(『吾妻鏡』文治元年五月十七日条)とあるように、義経の直臣です。彼は義経の臣の代表の一人として『義経記』にとって欠かせない人物として描かれています。したがって、『愚管抄』の示す義経郎等は間違いのないところです。ただし、彼の出自に関しては確かな史料はなく、その出身は謎であり、また治承・寿永の内乱以前からの臣であるかも明確な史料はありません。その意味で、他の義経の臣、例えば弁慶と同様に謎の人物です。

さて、②以下は第2次史料(後時代史料)であり、当時の大納言三条実房の日記が①で、当然ながら第1次史料(同時代史料)として、①が最も史料的価値が高いものです。この点からいえば、当然なことに①の示す「石田二郎」が義仲を討取った武士となります。このことは②・③の示すものと一致し、すなわち、相模武士の三浦一族の石田次郎為久ということになります。

これで結論が出たようですが、①には彼は「九郎義経郎従」とあります。果たして、石田為久は義経臣なのでしょうか。

考証抜きで結論を述べますが、義仲が戦死した宇治・瀬田合戦を次のように考えます。頼朝の目的は、第1義に京の後白河院の義仲よりの奪還・保護であり、第2義に義仲の打倒です。このため、後白河院側と連絡を密にし、義仲側の状況を上洛軍は熟知していたと考えます。それに基づき、上記の目的を達するために、大手の瀬田で義仲軍主力を拘束している間に、宇治の搦手を撃破し迅速に京都南方より突入し、後白河院を保護・確保し、しかる後に義仲を瀬田方面に追い込み、大手・搦手双方で包囲殲滅する作戦案を立てます。これにより、洛中での戦闘を最小化して、洛中での混乱を最小限とすることで、朝廷の信任と洛中の人心を得られることになります。乱暴な義仲軍との違いを際だたせるわけです。そして、大手には主将源範頼(頼朝異母弟)・副将一条忠頼(甲斐源氏武田信義嫡男)、搦手は主将源義経・副将遠江守安田義定(武田信義弟)の4人の大将軍のもとに編成されて攻撃をかけたのです。

では、大将軍の麾下にはいかなる武士が編成されていたのでしょうか。当然ながら、範頼・義経の元には、己の直臣とは別に、兄頼朝と主従関係にある関東武士が多勢をなしています。彼らの麾下を表示しているのは『平家物語』諸本のみです。『延慶本平家物語』第五本之七により、主要なそれを見てみましょう。大手では稲毛重成(武蔵・秩父一族)、土肥実平(相模・中村一族)、小山朝政(下野・大田一族)です。搦手では畠山重忠(武蔵・秩父一族)、三浦義連(相模・三浦一族)、梶原景時(相模・大庭一族)、佐々木高綱(近江)、渋谷重助(相模・秩父一族)です。

『延慶本平家物語』ではこれに続いて、宇治を突破し京中に突入した義経軍に対して、義仲軍が迎撃したこと記しており、戦闘を交えた武士として、畠山重忠・河越重秀・佐々木高綱・梶原景時・渋谷重国、そして源義経を挙げています。このメンバーは、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本によりその名に異同がありますが、基本的には義経が後白河院御所六条殿に参上したとき、随行した5氏族(河越・佐々木・畠山・渋谷・梶原)の武士です。実際には、京中では、義仲軍は非勢のために、抵抗すべくもなく、義仲は東方に敗走しています(『玉葉』元暦元年正月20日条)。洛中での戦闘はなかったといってもいいのが実態ですから、『平家物語』諸本の伝える京中での戦闘は虚構となり、この京中での戦闘に出てくる関東武士は、実は六条殿参上武士への華、いいかえれば義仲への華ということになります。したがって、この5氏族が義経麾下の御家人(頼朝臣)の代表的存在ということになります。

『延慶本平家物語』第五本之九には、瀬田へと落ちた義仲が兵を再結集させて、最後の戦闘を行い、戦死するまでが記されています。最初に当たるのが一条忠頼です。次いで、関東武士の土肥実平・佐原(三浦)義連があげられています。これが実際の戦闘を記したとはいえませんが、瀬田口での戦闘における象徴的存在であると考えます。

以上、『延慶本平家物語』を基本に見てきました。ここで注意されるのは、義経軍の麾下とされる三浦義連が、京都より瀬田へと敗走した義仲を迎撃する武士として登場することです。このことは、急速に洛中に進撃した義経軍が、一方で後白河院を保護するとともに、他方で瀬田へと敗走する義仲を追撃する部隊を放ったことの象徴的記述と考えます。すなわち、洛中に入った搦手軍は、義仲軍の抵抗が微少でかつ義仲が東に敗走したため、主将の義経が麾下の代表的御家人を率いて後白河院の保護に向かうとともに、その主力は義仲追撃へと東に向かったと考えます。その中に三浦義連がいたからこそ、彼の名が瀬田での戦闘に出てくるのです。石田為久は三浦一族の武士ですから、当然ながら義連に属していたことになります。このことは、為久の功はその上長である義連の功、そして義連は義経の麾下ということから、最終的には義経の功ということになります。とすれば、関東の武士団の内部に関する知識のない三条実房が為久を義経郎従と見誤るのも仕方がないことです。

以上により、石田為久は三浦一族の一員として義経麾下の三浦義連に属していたことになります。すなわち、義仲を討取ったのは相模国の豪族三浦氏の一族石田次郎為久です。

なお、付言しますが、院参において関東の4氏族(近江の佐々木を除く)は、『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条では、河越重頼・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季と、惣領かその嫡男が登場しています。それに対して、三浦氏においては、佐原(三浦)十郎義連が義明の末子であり、兄の惣領義澄・義村父子が、本合戦と次の一谷合戦とも登場しないのです。これらのことは三浦一族がその主力を上洛させずに、関東の守備軍として拘置されていたことを意味します。

(2005.09.09)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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木曽殿源義仲を討ち取ったのは誰か―歴史雑感〔5〕― への4件のフィードバック

  1. chao より:

    当方のブロクにコメントいただきましてありがとうございます。以後写真もきちんと撮ろうと思います。

  2. shiota より:

    K先生へ世間は狭いものですね。実は、私の妻は、K先生の学生でした(笑)在学中はいろいろと妻がお世話になりました。妻は、いつもK先生はとてもやさしくて素晴らしい先生だと言っております。機会があれば、一度妻と共にご挨拶に伺いたいと思っております。鴛鴦夫婦在四川

  3. 正大 より:

    鴛鴦さん、はじめまして。当blogへのお越しありがとうございます。ところで、奥様が小生の学生だったとか。小生は教師をやっているにもかかわらず、人の名前と顔を覚えることがだめで、遺憾なことに、貴ブログの写真を見ても思い出せません。奥様の何年の卒業でしょうか。たぶん、奥様の同級生の誰かが小生の連絡先を知っているでしょうから、それで連絡ください。なお、小生の宿舎と電話は変わっていません。

  4. shiota より:

    私のブログへのコメントありがとうございます。K先生の宿舎へおじゃまして、妻はDVDや論文作成の資料などをお借りしたこともあるそうで・・・(笑)妻は、西南交通大学の日本語科(成教)を今年卒業しました。明日、妻に直接ここへコメントさせます。

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