もう一人の義経、近江源氏山本義経(その3)―歴史雑感〔4〕―

三、木曽殿源義仲と山本義経

養和大飢饉に伴う戦線停滞は、1182(寿永元)年11月の安徳天皇の大甞会を無事に終えて、1183(寿永2)年にはいると、動きます。追討使大将軍維盛以下の大軍が北陸道へと進撃します。越前国燧城に籠る反乱軍を攻略し、最初は順調に進撃しましたが、5月11日、砺波山(倶利伽羅峠)合戦で義仲を首謀とする反乱軍の前に惨敗し、続いて加賀の篠原合戦にも敗北し、ここに平氏軍は潰え、反攻は惨めな失敗に終わります。義仲を筆頭とする、北陸の兵僧連合を主体とする反乱軍は越前国府に進み、ここに京都進撃の体制を整えます。

一方、東海・東山道よりも反乱軍が上洛を開始します。それには濃尾源氏に続き甲斐源氏の一方の雄の安田義定が加わります。東方三道の反乱軍から京都を防衛するために、平氏軍は近江国に出陣します。ここに同国の争奪戦が行われますが、この決め手になったのが比叡山延暦寺の向背でした。結局、延暦寺は反乱軍側に立ちます。同時に、摂津源氏の多田行綱などの畿内の武士の多くが反乱軍側に加わり、京都は四方から反乱軍に包囲されます。このような中、7月25日、突如として治天の君の後白河院が京都を脱出し、比叡山に入ります。これを知った平氏は即日、六波羅の居所を焼き、一門を挙げて安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと都落ちをします。

かくして、27日、後白河院は叡山から京都に戻りますが、院の先立ち勤めたのが錦織義高(義経子)で、院側に立ったのが叡山僧兵の珍慶でした(『吉記』同日条)。このことは近江国兵僧連合を象徴しています。当然ながら、山本一族が反乱軍として活躍した(おそらくは叡山の反乱軍側への参加に大いに働いたと思います)からこそ、義高のハレの場があったわけです。

翌28日、木曽殿源義仲・新宮殿源行家は後白河院の御前に参上し、平宗盛追討の院宣を受けます(『吉記』同日条)。ここに、東国の諸源氏などの反乱軍が官軍となり、逆に平氏が賊軍となったのです。次いで、30日、京中守護分担を定めた院宣が諸将に下されます(『吉記』同日条)。ここに名を連ねた義仲以下、12名の面々が今回入洛した各地域の有力武士です。その中に、山本義経・柏木義兼兄弟が入っています。このことは、彼らが近江国を代表してその選に入ったことを意味します。さらに、8月10日の義仲・行家両人を皮切りとして、官軍となった諸将に対して、16・25日、平氏追討勧賞が行われ、この時、最も上級である国司に任じられた諸将として、越後守源(木曽)義仲・備後守源(新宮)行家・遠江守源(安田)義定・伯耆守源(土岐)光長・佐渡守源(葦敷)重隆そして伊賀守源(山本)義経の6人が確認されています(浅香年木氏、前掲書参照)。全員源氏であると同時に京中守護諸将に名を連ね、彼らが入洛した旧前の反乱軍の各地域の棟梁的武士といえます。

山本義経の伊賀守は伊勢・伊賀両国にいる平氏勢力を意識した、いわば平氏追討を意識した任命です(拙稿Ⅰ参照)。同時に、義経にとっても、甲賀郡が基盤の一つであり、これに南接した伊賀国の支配権を握れる国司の任命は自己の勢力を南下拡大させるのに有利であり、望むところではなかったでしょうか。こうして、義仲を筆頭とする本年の第1次源軍上洛に加わった山本義経は軍事貴族として朝廷に認定されて、その立場を固め飛躍しようとしていたのです。

この第1次源軍上洛軍は義仲を筆頭としていましたが、これに所属して上洛した武士たちの過半は彼と主従関係を結んでいたわけではなく、行家以下の諸源氏の軍事貴族(浅香年木氏前掲書では、彼らを相伴源氏と名付けています)との連合軍であり、同時に北陸の兵僧連合でもあり、義仲の威令が全軍に達していたわけではありません。いわば、統一した指揮系統はないのです。形式上は朝廷がその上にあって、彼らを指揮する形となっていたのです。

入洛軍にとって当面の課題である兵糧確保に対して、朝廷は有効ある策を提示せず、事態を自然に任せたことは、兵糧確保に走った所謂略奪を招きます。このことは、当然ながら入洛軍の筆頭に位置する義仲にその非難が集まり、彼の評判を下げる結果となったことは、『平家物語』に見えている通りです。このことからも、入洛後の諸将はそれぞれの目的により独自の行動をするようになり、次第に義仲の統制は及ばなくなり、無秩序な集団となっていきます。

一方で、鎌倉に座している頼朝は朝廷に接近し、朝廷も義仲から頼朝へと軸を移していきます。また、本来の軍事行動である対平氏戦においても、閏10月1日、備前水島合戦で義仲軍は大将軍の矢田(足利)義清らが戦死するという敗北を喫します。このような中、朝廷は東国の支配権に関する所謂10月宣旨を頼朝に与えます。これを受けて、頼朝は、「その替に、九郎御曹司〔誰人や、尋ね聞くべし、〕を出立、すでに上洛せしむ」と、異母弟九郎義経を上洛させます(『玉葉』同年十一月二日条)。これは現存の京都の貴族の日記に九郎義経の名が記されている最初です。同時に、入洛を共にした多くの諸将が義仲から離れ、義仲は孤立します。こうした情勢を見た後白河院側は法住寺殿に兵を集め、武力で義仲を排除せんとの姿勢を示します(『玉葉』・『吉記』・『百練抄』同月十八日条)。院側の挑発を受けて、翌19日、義仲は法住寺殿を攻撃し、院軍を撃破し、京都の支配権を握ります。この法住寺合戦で、院側として戦い戦死した中に、伯耆守光長がいます(『吉記』同日・廿一日条)。先の6人の軍事貴族の中で、院に荷担したのは彼だけのようで、他の4人の名は本合戦には史料上の所見はありません。彼らは義仲側、院側、中立、いずれの立場を取ったのでしょうか。山本義経はどうしていたのでしょうか。

義仲は実権を握るや、後白河院派の摂政近衛基通を更迭し、治承3(1179)年の平氏クーデターで罷免された前関白松殿基房の子、師家(11歳)を摂政に据えます(『百練抄』同月廿一日条)。同時に、院側近を解官し(『吉記』同月廿八日条)、続いて、12月3日にも解官を行いますが、この中には佐渡守重隆以下、村上信国(信濃善光寺平)・源有綱(頼政孫)・仁科盛家(信濃松本平)と、先の京中守護を担当した諸将が含まれています(『吉記』同日条)。行家は法住寺合戦以前に義仲と袂を分かって、平氏追討のために下り、28日、播磨国室山合戦で敗北しています(『玉葉』十一月八日条、『吉記』十二月三日条、『延慶本平家物語』第四之廿一・室山合戦事)。こうしてみると、入洛した諸将の過半が義仲から離れたことが理解できます。義仲の本国である2人の信濃国諸将の支持をも義仲は失っていたのです。

12月10日、臨時除目を行います。当然ですが義仲人事です。この人事で、伊賀守義経は若狭守に遷任します(『吉記』同日条)。21日には、義経子の錦織義広が検非違使に任じられます(『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条)。以上のことは山本氏がこの時点で親義仲派であったことの何よりの証拠です。京中守護担任を命ぜられた義仲を含む12人で、法住寺合戦後も、明らかに義仲派といえるのは山本氏兄弟しかいないのです。

『吉記』同上では、その理由が分からないとしています。では、なぜ若狭守に遷任されたのでしょうか。この臨時除目と同時に、頼朝追討後白河院庁下文が義仲の申請により発給されます(『吉記』・『百練抄』同日条)。かくて、義仲は己の生き残りをかけて、頼朝との全面対決に踏み切ります。こうして、両者は戻ることのできないターニング・ポイントを渡りました。ここで、義仲は京を放棄して北陸道に後退して、そこでの兵僧連合を再構築して、頼朝との対決を図ろうと考えていました。とすれば、義仲とすれば、北陸道の入口である若狭国の確保は、北陸道の再編成にとっても、京から近江・若狭・越前と続く交通路(退路)からいっても必須であることはいうまでもありません。そこで、北近江に名字の地があり、近江に多くの拠点を持つ山本義経を若狭守に任じるのは、彼が与党である以上、極めて自然な人事といえましょう。義経にとっても北近江から北に北陸道に勢力を拡大する機会を得たことなり、異はなかったでしょう。義仲が没落すれば、自身も没落するのですから、彼も頑張るざるをえないでしょう。

事は急速に展開し、北陸道へと後退することも出来ず、折から西国から巻き返しつつあった平氏との和睦もならず、かといって十分な迎撃態勢を取ることも出来ず、義仲は京都に頼朝の派遣した異母弟範頼・義経に率いられた関東勢を迎え撃つことになります。これには甲斐源氏主力に畿内周辺の勢力も加わり、圧倒的な兵力差が生じていました。元暦元(1184)年の第2次源軍上洛です。完全に義仲は孤立しました。正月20日、大手の勢多(今井兼平=義仲乳兄弟)と搦手の宇治(志田義広=義仲叔父)に防衛線を張る義仲軍に対して、頼朝軍は攻撃をかけ、鎧袖一触で、宇治の防衛線を突破し、九郎義経は一気に入洛し、後白河院を保護下におきました。義仲はかろうじて京から落ち延びましたが、搦手軍の追撃を受け、同時に大手軍に捕捉されて、近江粟津(大津市粟津町)にて戦死します。

義仲が滅亡した本合戦において、山本義経の子錦織義広は戦場から逐電します(『吾妻鏡』同日条。なお、本条には頼朝軍の搦手大将軍として九郎義経が所見し、同時に義広父として山本義経が所見し、二人の義経を書き分けており、両人が別人であることは明瞭なことなのです)。彼は勢多・宇治合戦で義仲軍の一員として戦闘に参加したのです。このことは、義仲の最後まで山本氏が義仲派であったことを示します。しかし、治承・寿永の内乱前期に活躍し、京都の貴族の日記に何度も登場し、入洛後は国司に任官した山本義経自身は、本合戦に関する史料では一切その名を見せません。本合戦に参加していれば、その名を見せるのが今までの経緯からしても知名度からしても自然でしょう。しかし姿を見せません。そのことは、何を意味するでしょうか。彼の若狭守遷任の意味をすでに述べていますが、そのことからいえることは、彼は若狭国に下りその掌握を図り、京・近江・若狭そして北陸道という交通線を確保せんとしていたのではないでしょうか。このことは、義仲の本来的な策、北陸道への後退にとって必要条件となります。すなわち、本合戦時に彼は京におらず、若狭に下っていたとするのが、史料上の所見のないことの表われと考えます。

義仲が滅亡したことは、当然ながら山本氏も没落したことになります。山本義経を含め、本合戦以後、山本氏は史料から姿を消します。替わって、治承・寿永の内乱後半では、周知のように頼朝異母弟の九郎判官義経が活躍することになります。

(終わり)

(2005.08.07)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本中世史(軍事) パーマリンク

もう一人の義経、近江源氏山本義経(その3)―歴史雑感〔4〕― への4件のフィードバック

  1. 沸点 より:

    読むのは大変でしたけど勉強になりました^-^Y

  2. 正大 より:

    沸点kaku1111さん、はじめまして。これからも、駄文お読み下さい。

  3. 順一 より:

    湖北の歴史に関心があり、興味を惹かれました。山本義経の動静は参考になりました。特に湖北町速水を名乗った山本義経弟の早水義春の動静を知りたいと思っています。何でもご教示ください。

  4. 正大 より:

    順一さん、はじめまして。早水義春に関しては、残念ながら、『尊卑分脈』に義経弟として記されているだけで、他の史料には一切所見がありません。ですから、その苗字から浅井郡早水庄(湖北町速水)を拠点としていたことくらいしか分かりません。それ以上の追跡は、新史料の発見でもないと無理です。

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