もう一人の義経、近江源氏山本義経(その2)―歴史雑感〔4〕―

二、治承・寿永の内乱前期

1180(治承4)年5月の以仁王(後白河院第3皇子)・源頼政(頼光流馬場源氏)の戦死で費えたかにみえた、内乱の火は、8月の伊豆国での源頼朝の挙兵を嚆矢として、全国へと燃え盛っていきます。治承・寿永の内乱です。この内乱に山本義経も登場するのです。彼が流罪を許されたのは1179(治承3)年ですから(『吾妻鏡』治承四年十二月十日条)、内乱以前には近江国に戻っていたことになり、内乱の報を地元で聞いたことになるでしょうか。

6月の福原(神戸市)遷都に対して、延暦寺を筆頭とする寺社は強く反対し、反平氏の色を示しており、10月下旬、遷都反対の主張が受け入れられないならば山城・近江両国を奪取する準備をするとの朝廷への奏状を延暦寺が出した報が流れます(『玉葉』同月廿日条)。近江国は風雲急を告げていたのです。

そのような中、東国反乱軍の優位を決定づけた20日の富士川合戦における、平氏敗戦の報が28日には京都で風聞として伝えられ、朝廷はそれを知るのです(『山槐記』同日条)。11月5日夜には敗将平維盛(清盛孫、故小松内府重盛嫡男)が入京し、同時に敗戦の詳報も知れ渡り、(『玉葉』同日条)ここに平氏の無様さを天下に曝したのです。

遠江国以東は反乱軍の支配下となり、平氏はそれに対抗するため、7日、美濃源氏に対して源頼朝・武田信義追討宣旨を発します(『吉記』同月八日条)。しかし、頼みの美濃源氏は反乱側となり、美濃・尾張両国は反乱軍の手に落ちます(『玉葉』十七日条)。反乱は刻一刻と京都に近づいたのです。

19日、近江国に反乱が及んだとの報を右大臣九条兼実はえます(『玉葉』同日条)。20日、伊勢国派遣ため下向中の平宗盛家人飛騨守藤原景家郎等が射殺されて瀬田で梟首され、同時に琵琶湖水運が反乱軍の手中に落ち、京都から東、とりわけ北陸道への交通が遮断され、運上物が奪取されることになりました(『山槐記』同月廿二日条、『玉葉』同月廿三日条)。ここに、近江国反乱軍の首謀として、源氏の「甲賀入道」「山下兵衛尉」の名が初めて史料上に登場します(『玉葉』同月廿一日条。なお、同書では本年中は「山下兵衛尉」「義経」として表記されています)。この「山下兵衛尉」こそが近江源氏の山本義経で、「甲賀入道」はこの弟柏木義兼です(義兼は『尊卑分脉』では義経の子ですが、実は弟です。拙稿Ⅰ、「寿永二年八月勧賞源氏諸将任国守の史的意義」『政治経済史学』4389200323月参照)。

このように物情騒然とする中、26日、後白河院・高倉院らが平氏の六波羅亭に入り、ここに福原遷都が破産したのです。29日、近江国反乱武士が園城寺に入りました(『玉葉』同日条)。このことは、旧来の矛盾を止揚して、寺社と在地武士が共同戦線を張ったことを意味します。「兵僧連合」の誕生です。以後、近江から北陸道にかけての反乱軍は兵僧連合によって主導されます。(浅香年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)

足下に迫った反乱鎮圧のため、12月2日、平氏は追討使として近江道に平知盛(宗盛弟)、伊賀道に平資盛(維盛弟)、伊勢道に伊勢守藤原清綱を派遣します(『玉葉』同日条)。近江に入った平氏軍は瀬田・野地(草津市野路町。東海道の宿駅)の在家を焼き討ちしますが、反乱軍は美濃源氏を加えて5千騎に対して、「官兵」平氏軍は全体で3千騎にすぎませんでした(『玉葉』同月3日条)。しかし、平氏軍は反乱軍を押し返してゆきます(『玉葉』同月四・六日条)。ここで、延暦寺堂衆の一部が園城寺に与して、義経とも語らって六波羅夜討を策すとの報が京都に流れます(『玉葉』同月九日条)。延暦寺・園城寺・近江源氏の3者連合の成立は平氏にとって由々しきことです。平氏は園城寺がその策源地と見て、攻勢をかけます。11日、平清房(宗盛弟)を将とする平氏軍は園城寺を焼討ちし、全山を焼払い、金堂のみが害を免れたのです(『百練抄』同日条。『延慶本平家物語』第二末之卅・平家三井寺ヲ焼払事は、日付・将は異なりますが、被害の様子は詳しいです)。ここに反乱軍の拠点としての園城寺は潰えたのです。

かくて、知盛・資盛を大将軍とする平氏軍は、13日、義経・義兼兄弟らの反乱軍の拠点の馬淵城(近江八幡市馬淵町。東山道上に位置します)を攻略し、義兼の首級を挙げる(後に虚報とわかる)という勝利をえました(『山槐記』同日条、『玉葉』同月十五日条)。ここに、南近江は平定されましたが、義経らは北近江の自分の本拠地である山本に籠り抵抗を続けました(『玉葉』同月廿四日条)。しかし、28日の平重衡(宗盛・知盛弟)軍による南都焼討ちにより、反乱の一方の雄であった南都の寺院勢力が鎮圧されたこともあり、畿内周辺での反乱勢力は弱化しました。

明けて1182(養和元)年、近江を制圧した平氏軍は美濃国に進撃し、美濃源氏の(土岐)光長の拠点を攻撃します(『玉葉』同年正月十八日条)。この攻撃は成功し、20日、蒲倉城(不詳)の反乱軍を通盛(清盛弟教盛嫡男)・維盛を大将軍とする平氏軍は撃破し、多くの反乱軍の将を討ち取ります(『玉葉』同月廿五日条、『百練抄』同廿日条)。この合戦で、尾張源氏の小河重清・葦敷重義などが戦死し、その中に、簑浦義明(義経子)が含まれており、(『吾妻鏡』同年二月十二日条)近江国に敗れた山本氏が美濃国の反乱軍に合流して抵抗を続けていたことが分かります。ここに、近江・美濃・尾張の反乱連合軍は敗退を余儀なくされます。

しかし、ここに源行家(義俊)が反乱の首謀として尾張国に現れます(『玉葉』二月一日条)。反乱蹶起書である最勝親王宣(所謂以仁王令旨)の伝達者であったことは除き、これは反乱軍としての行家の史料初見です。合戦に消耗した平氏軍は尾張へと進撃することなく、美濃・近江に停滞します(同上)。続いて、12日、東国追討使大将軍知盛が病のために前線より京に戻ります(『玉葉』同日条)。行家以下の尾張反乱軍の勢力は美濃の平氏軍を凌駕していました(『玉葉』同月十六日条)。このため、平氏は宗盛以下の全力をもって反撃を計画しました(『玉葉』同月廿六日条)。ところが、平氏総帥の清盛が病により、閏2月4日、急死します。ここに事態が急転して、平氏は宗盛を新たな総帥として体制を組み直します。この結果、15日、追討使重衡が頼朝追討後白河院庁下文を掲げて下向します(『玉葉』同日条。本下文に関しては拙稿Ⅱ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」『政治経済史学』1652271980年2月、1985年6月参照)。重衡軍は、3月10日、濃尾国境の墨俣川に行家軍を破り、その際、九郎義経の同母兄の義円(乙若)が戦死したことは周知のことです。ここに、東海道方面の戦線は、折からの養和大飢饉のためもあり濃尾を挟んで対峙する状況となります(拙稿Ⅲ、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』3701997456月参照)。

こうして見てくると、『吾妻鏡』治承四年十二月十日条に、去1日に近江の拠点を平氏軍に奪取されたために、山本義経が頼朝を頼って鎌倉に来、臣従を許されたという記事は、少なくとも時期的に不可能なことです。したがって、基本的にこれは虚構と考えますが、たとえそれが事実の反映としても、その下向時期は下り、すなわち墨俣合戦後とするのが自然です。後述するように、義仲派としてその最後まで行動を一にしていることから、その臣従は当然ながら虚構で、山本義経は頼朝とは関係がないと見るべきなのです。

こうして、山本義経は近江国に兵僧連合の一員として立ち上がり、その敗退後は濃尾の反乱軍と行動を一つにしていたといえます。同時に、名字の地が北陸街道を扼する北近江山本郷であることからして、それに兵僧連合の関係からして、1181年秋より本格化する北陸道の反乱勢力(兵僧連合)とも繋がりがあったと考えるべきです。蒲倉城の合戦後の山本氏は史料上の所見がなくなり、その後の彼が尾張に位置していたのか、北陸に位置していたのか史料上からは明瞭ではありません。しかし、1183(寿永2)年4月の越前国燧城(福井県南条郡今庄町燧)に平氏軍を迎え撃った反乱軍の一員として、『源平盛衰記』倶巻第二十八に、甲賀入道(義兼)の名があることは、最終的には、北陸道の兵僧連合の一員として、山本氏は北陸道に位置していたと考えることができます。

(続く)

(2005.07.30)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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