もう一人の義経、近江源氏山本義経(その1)―歴史雑感〔4〕―

一、治承・寿永の内乱以前

治承・寿永の内乱で、一谷・屋島・檀浦と、平氏戦で活躍し、その後、異母兄源頼朝と対立して没落し、奥州の地で悲劇の最後を遂げた、九郎判官義経は人口に膾炙しており、本年も、NHK大河ドラマ『義経』として放送中です。

この時代、九郎判官義経が歴史上に華々しく登場する、1183(元暦元)年正月の勢多・宇治合戦を境に、内乱前半には活躍していた、もう一人の義経が舞台から姿を消します。これが近江源氏の山本義経です。この時期を接して交代する二人の義経については、故松本新八郎氏が同一人説を提唱し(「玉葉にみる治承四年」『文学』17号1949年10月参照)、それが一般向け歴史書の中でも取り上げられるようになり、広まりました。その後の歴史研究の深化により、氏の同一人説が成立しないことが明らかになり、氏の説は完全に否定されました。しかし、今でも氏の説を口にする人がおります。そこで、あらためて、近江源氏の山本義経について述べたいと思います。

山本氏は、新羅三郎義光(河内源氏頼義の3男。兄に八幡太郎義家がいます)の長子太郎義業の子、義定が「山本」と号したところから始まります。義定の兄が常陸国に勢力を張る佐竹氏の祖三郎昌義です。また、義業弟の三郎義清は甲斐国の武田氏の祖となりますし、四郎盛義は信濃国の平賀氏の祖となります。問題の義経はこの義定の長子です。「山本」は近江国浅井郡山本郷(滋賀県湖北町山本)のことで、同町に北接する高月町との境にある、琵琶湖を一望できる山本山に義定・義経親子が築城したと伝えられています。義定がいかなる経緯でこの地に地歩を築いたかは不明です。ただ、祖父義光が近江国の大寺園城寺の守護神新羅大明神で元服し新羅三郎と名乗ったことから窺えるように、彼は園城寺と結びつきがあり、近江国に勢力を張っていたといえ、その関係で義定が山本郷に拠点を築くことができたと思えます。

義経は生没年とも不明で、母も分かりませんが、『尊卑分脉』によると、男子として箕浦義明・山本(錦織)義弘(義広)・柏木(甲賀)義兼(実は義経弟。後述)・錦織義高・大島義成・河内頼高が、弟として山本光祐・山本義賢・早水義春・豊後胤義・真嶋宣義・親定が認めらます。「早水」は浅井郡早水庄(湖北町速水―山本に東接)を名乗りの地としたといえ、義定の代に浅井郡山本郷を中心に勢力を扶植したと考えます。次いで、「箕浦」は坂田郡箕浦庄(近江町箕浦)、「柏木」は甲賀郡柏木御厨(水口町北脇等)、「錦織」は滋賀郡錦部保(大津市錦織町)と考えられ、義経の代に北近江から南に琵琶湖を時計回りにその勢力を広げて、その名乗りとしたことが理解できます。このようにみると、山本氏は近江国内に広くその勢力を扶植させていたことが分かり、同国の有力武士といえます。

義経は近江国内に勢力を広げると同時に、京武者(京都において朝廷などに奉仕する武士)の面も見せます。1168(仁安3)年12月の京官除目で、皇太后宮(平滋子―後白河院女御・高倉天皇生母・平清盛正室時子異母妹)給分として、左兵衛尉に任官しました(『山槐記』除目部類仁安三年十二月十三日条)。『尊卑分脉』には父義定の傍注に左兵衛尉があり、おそらくその先例を追ったものと考えます。この任官から、当時の義経は、甲斐源氏の加々美長清が平知盛(清盛4男)の家礼であったように(『吾妻鏡』治承四年十月十九日条)、強い主従関係にある家人というよりも、弱い従属関係である家礼として、平氏に仕えていたと言えましょう。

しかし、1176(安元2)年12月、延暦寺根本中堂々衆を殺害した罪により、義経は佐渡国流罪となります(『玉葉』同月二十六・卅日条)。これは義経と延暦寺との間で何らかの問題が発生し、その過程で延暦寺側に死者が出たこととなり、それを「罪」として義経が朝廷から蒙ったことになります。この両者間の紛争の具体的なことは史料上の所見はありません。これは、近江国内最大の荘園領主であり、寺社権門の雄である延暦寺と、国内にその勢力を広げつつあった在地領主義経とが互いの所領を巡って問題、例えば境紛争などを起こし、それがエスカレートして双方が武力を発動した結果が死傷者を生み出したと考えます。死傷者は延暦寺側のみならず義経側にも出たとも思われますが、白河法皇の三大不如意(賀茂川の水・双六の賽・山法師)で知られるように、当時の比叡山延暦寺の権威は極めて強く、その要求を朝廷が受け入れるのが通例でしたから、義経のような6位の侍身分では朝廷にその意を認めさせことはできず、延暦寺側の意向が通り、義経の「罪」とされて流罪に処せられたと考えます。ともあれ、この件で、義経は挫折させられることになります。そして、それは朝廷、ひいては平氏が己にとって如何に頼りにならないものかを痛感させられたことでしょう。

(続く)

(2005.07.20)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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