木曽殿源義仲の伊予守遷任(その2)―歴史雑感〔3〕―

義仲は越後守を嫌いました。義仲に差を付けられた不満の意を行家が表したように、当然に嫌う理由、ひいては要求を示したはずです。その結果が伊予守遷任となったとすべきです。とすれば、伊予守への遷任は朝廷の主導的な意志というよりも、義仲の要求に合わせたと考えた方が妥当です。何を義仲は要求したのでしょうか。すなわち、義仲は伊予守任官に何を期待したのでしょうか。

まず勧賞のことです。8月10日・16日・25日と3回にわたって行われた勧賞において、義仲・行家の他、以下の源氏諸将が国守に任命されたことが確認されています。伊賀守に山本義経(近江源氏)、遠江守に安田義定(甲斐源氏)、佐渡守に葦敷重隆(尾張源氏)、伯耆守に源光長(美濃源氏)の4人です。(浅木年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)彼ら以外にもこの勧賞を蒙った武士はいますが、彼ら6人が一段と高い軍事貴族として朝廷から認められたことになります。すなわち、武家の棟梁としての資格を有していたのです。この意味では、彼らは同格なのです。

この勧賞では、勲功第1と認定された頼朝が何らの行賞も受けていないことで理解されるように、上洛することが行賞の大前提です。国守任命に当たって、諸将の出身国を除外し、第1に父祖・一族の先例を踏襲するもの、第2に平氏追討のためのもの、第3に実力(反乱)による国衙支配権の奪取(簒奪)を追認するものと、三つの原則から任国守がなされました。佐渡守の葦敷重隆・伯耆守の源光長が第1、伊賀守の山本義経・備後(備前)守の源行家が第2、そして遠江守の安田義定・越後守の木曽義仲が第3です。(拙稿、「寿永二年八月勧賞源氏諸将任国守の史的意義」『政治経済史学』438・9号2003年2・3月参照)

次に、伊予国について考えてみましょう。伊予国は遠江・越後・備後などと同じく上国で、この点では同格ですが、平安後期では、播磨国と並ぶ温国として、最も羨望された国守であり、事実上の最上位国でした。このことは、平治の乱後における国守の任免を見ても分かります。すなわち、平治の乱(1159年)直後の、12月、平清盛の嫡男重盛が勲功賞として国守に任じられます(『公卿補任』応保三年条平重盛尻付)。1161(応保元)年に、清盛の与党である藤原邦綱が重盛に替わって任じられます。そして、1164(永万元)年には清盛が知行国主になります。このように、平治の乱後には清盛が同国に強い影響力を保っていたのです。その後、間に摂関家などの知行国主が入りますが、1166(仁安元)年以降、治承3年(1179年)の清盛クーデターで実権を剥奪された時期を除くと、本年に至るまで、後白河院の院分国です。(飯田悠紀子氏、「知行国主・国司一覧」『中世ハンドブック』1973年近藤出版参照)伊予国は朝廷にとって最重要国と言えます。

清和源氏にとって、伊予国はどんな国でしょうか。河内源氏の嚢祖頼信が東国に地歩を築き、嫡男の頼義がこれを発展させ、とりわけ前九年の役に活躍したことはよく知られているとおりです。この乱で、奥州安倍氏に勝利した頼義は、1163(康平6)2月、安倍貞任追討の行賞として、伊予守に任じられ、正4位下に昇叙します(『百練抄』同年二月廿七日条)。河内源氏にとって伊予守は栄えある名誉であり、輝く先例なのです。

頼義の長男義家の子孫が頼朝であり、義仲であり、行家であります。3男義光の子孫が安田義定などの甲斐源氏であり、近江源氏の山本義経であり、信濃源氏の平賀義信であります。このように、頼義子孫は東国の反乱軍の主勢力、関東の頼朝・甲斐源氏・信濃源氏を網羅しています。いわば、東国の河内源氏共通の栄えある祖が頼義なのです。この意味で、『源平盛衰記』(巻二十八・頼朝義仲悪事)に記されている、頼義の義家流にも義光流にも子孫に優劣がないとの甲斐源氏伊沢五郎信光の意識は、あながち物語の虚構とするよりも、当時の東国における河内源氏一門の意識の反映と考えます。当然ながら、このことは頼朝のみが嫡流を占めることができると言うわけではないという意識になります。

以上から理解できることは、伊予守が第1に勧賞の対象国として最上位に位置すること、第2に河内源氏にとって祖頼義の輝ける栄光の先例を担うことです。

さて、義仲の立場から伊予守を考えます。対平氏戦においては協力し合う関係ですが、武家の棟梁の座を巡って源氏諸将はお互いに競合関係にあります。このことは、この春の頼朝・義仲の対決(拙ブログ「寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突」参照)ではっきりと表面化しました。源氏の各将は対平氏戦を戦うとともに、一歩でも他に抜きんでようと激烈な競争をしていたのです。行家の不満の意もその表れです。そうならば、伊予守に任官できることは他の諸将にたいして明確に上位したことを示すことができます。とりわけ、その第2の意味は、頼義子孫の中で、己がその栄光先例を受け継ぐ正統者であることを、示すことになります。すなわち、河内源氏の筆頭が自己であり、ひいては嫡流であるという表示になるのです。ライバルである頼朝に上位することは義仲にとって急務です。この意味からいえば、伊予守任官は義仲が頼朝にこの時点で上位したことを明瞭にさせます。明らかに義仲は頼義の先例を意識していたと考えます。伊予守就任は義仲を河内源氏の正統者たらしめるのです。また、越後守では行家の備後守(上国)や安田義定の遠江守(上国)と同格で、たとえ京官の左馬頭があって彼らに上位していますが、その差は決定的なものではありません。同時、越後国はすでに簒奪し支配権は掌握しており、守就任は実質においてメリットを感じなかったとも言えます。ということは、越後守でえられるメリットと、伊予守でのメリットを比較すれば、後者の方が極めて大きいと判断できます。ここに、義仲が伊予守を要求しそれを実現させた理由があると考えます。

他方、朝廷からみた伊予守任官はどうでしょうか。平氏都落ち以降、平氏の勢力下となり、後白河院の主導する朝廷の支配の及ばない地と西国はなっています。伊予国は後白河院が己の院分国としての支配不能の名目上のものです。すなわち、現時点では院は失うべき実質がないわけです。次に、本勧賞での3原則からみれば、伊予守は第2の平氏追討を促すことになります。この点は、義仲にとっても、平氏追討の名義も立ち、両者の意向が合うと考えます。さらに、国守任免権(地方支配権)が朝廷にあるという本義(原則1・2はこれに基づくものです)を、原則3は本質的に突き崩すものである以上、朝廷としては本音では認めたくないものです。越後守から伊予守に遷任すれば、これが遠江守安田義定一人だけになり、弱まります。この意味で、伊予守遷任は都合がよいのです。伊予守任官は原則1を基本として、同時に原則2の意味を持ち、源氏諸将を旧前通りに朝廷に忠実な軍事貴族としての位置づけができるのです。以上、朝廷からみても、メリットがあると判断したからこそ、義仲の要求を受け入れ、かかる人事になったと考えます。ここに義仲の伊予守遷任で後白河院分国でなくなり、義仲が伊予国最高責任者となったのです。実態は平氏が実質支配し、義仲はそれを排除しなければ支配権を行使しえなかったとしても。

義仲と朝廷がそれぞれのメリットを享受できるとして、義仲の越後守から伊予守への遷任がなされたのです。一方、行家の備後守(上国)から備前守(上国)への遷任が何らの昇格をもたらさない横滑りで、単に対平氏戦の後背国から最前線国に替わっただけで、彼の不満に何ら応えていないことは明らかです。両者への対応をみれば、この時点では、朝廷は在京中の義仲を「官軍」筆頭として明確に処遇し、対平氏戦に備えたのです。この意味からいえば、朝廷は義仲を一番頼りにしたのです。

しかし、同時に、安徳帝の後継問題(後鳥羽帝践祚)を巡って、たちまち両者は激しく対立し、義仲が後白河院の信頼を失ったことは周知のことです。両者は同床異夢でしかなかったのです。

(終わり)

(205.06.05)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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