木曽殿源義仲の伊予守遷任(その1)―歴史雑感〔3〕―

1183(寿永2)年7月25日、平氏一門は六波羅の居宅を一宇残さず焼き払い、安徳幼帝を奉じて、西国へと都落ちしました。平氏に先立ち比叡山に密かに逃れていた後白河院が、27日、京都に戻りましたが、その先頭には近江源氏の錦織義高(山本義経男)が立ち、(『吉記』同日条)替わって、ここに、1181(治承4)年8月の源頼朝の挙兵以来の反乱軍は「官軍」として京都に入ることになりました。翌28日、木曽殿源義仲、新宮殿源行家らに率いられた「官軍」主力が入京したのです。義仲・行家両人は院御所の蓮華王院に参上し、後白河院御前で平氏追討を命ぜられました。この際、両人が並んで御前に進む時、前後を争い、すでに両者の間に権を争う意があると公家らに見られたのです。(『玉葉』同日条)

ここに新たに官軍となった東国の源氏諸将への、「平氏追討」に対する論功行賞(勧賞)が行われることになりました。30日、蓮華王院に議定を招集し、左大臣大炊御門経宗・右大臣九条兼実・大納言三条実房・中山忠親・中納言藤原長方が出席しました。この席で、源氏諸将の「勲功」の優劣が議されました。それは、上洛していない源頼朝が第1、義仲が第2、行家が第3となりました。(『玉葉』同日条)

8月10日、義仲が従5位下越後守兼左馬頭、行家が従5位下備後守とする、平家追討による最初の勧賞が行われました。しかし、行家はこの賞に直ちに不満の意を示しました。軽すぎるし、義仲に差を付けられているというのです(『玉葉』12日条)16日、第2次の勧賞が行われました。この時、行家は1週間も経たずに備前守に遷任されます。彼の不満がこの人事になったことは間違いありません。一方、義仲も伊予守に遷任します。義仲も越後守を嫌った結果です(『延慶本平家物語』第四・四源氏共勧賞被行事)。義仲は京官(左馬頭)を兼官しており、明らかに行家に上位しています。だからこそ、行家が不満の意を表したわけです。では、義仲は何に不満があったのでしょうか。そのことを示す史料は見あたりません。そこで、何故かかる人事がなされたか少し考えてみたいと思います。

(続く)

(200.05.29)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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