寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その3)―歴史雑感〔2〕―

義仲と頼朝とがどこに陣を布いたかは『平家物語』諸本により異なります。ここではその細かい差異とその地の考証は論点に影響しないので省きます。簡略化すれば、義仲は北陸街道沿いの信越国境付近、頼朝は長野新幹線沿いの信濃国内に陣を構えて、対峙したのです。

頼朝軍が碓氷峠越えで信濃に侵入したことは前回考えました。それでは、なぜ義仲が佐久より引いて、信越国境に陣を布いたかを考えてみましょう。

佐久平の中心と言える平賀氏が頼朝側に付いた以上、義仲が佐久平に頼朝軍を迎えることは不可能と言え、ここより撤退したことはうなずけます。そうであるならば、義仲は本来信濃木曽党でありますから、信濃国内に迎撃してもよいはずです。例えば、木曽党の地盤である松本平を拠点として、これへの接近路である三才山峠(国道254号)などを防衛線する、また、善光寺平に引き、これの接近路である塩尻(上田市)屋代(千曲市)間の千曲川隘路を防衛線にすることです。

しかし、いずれも取らず、義仲は信越国境まで引いたのです。前回で述べたように、松本平には平賀氏の同系統の岡田氏がおり、善光寺平にも横田河原の奇策で知れる頼季流源氏の井上氏などが盤踞していました。彼らが義仲の下に団結していたならば、決して義仲が信濃から下がることはなかったはずです。すなわち、そのことは、義仲が両平の主導権を握っておらず、一枚岩でなかったことの現われと考えます。平賀氏のように頼朝方に走った源氏がいた可能性さえありますが、史料上でこれを推量させるものはありません。

ただ、もし越後が義仲の勢力下になければ、信越国境に義仲が陣を布くことはできなかったはずですから、横田河原合戦後、越後の支配権の主導は少なくとも義仲が握っていたと考えることができます。いわば、木曽党・佐久党・甲斐源氏と、各地域の連合体である信濃反乱軍は、頼朝軍の侵攻の圧力より、その一枚岩的団結を乱し、傘下の諸勢力には別個の道を取る者も出てき、その結果、義仲の勢力基盤が信濃から越後へと移行せざるを得なかったことの反映が、この義仲の信越国境布陣と言えます。したがって、この後の義仲は越後、すなわち北陸道に目を向けることになりましょう。

さて、頼朝が信濃侵攻をなした原因として源行家の件を『延慶本平家物語』は挙げています。これは事実でしょうか。周知のように、行家は以仁王令旨伝達者として治承・寿永の内乱に登場します。その後、1181年春、濃尾反乱軍の首魁として姿を見せ、3月の墨俣川合戦に平重衡軍に敗北し三河に退きますが、以後、ここを拠点として活動し、三尾反乱軍の中心として木曽川以東を勢力圏としていたのです。この行家の行動は頼朝とは独立した自立したものなのです。(拙稿Ⅱ、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』370号1997年4・5・6月参照)したがって、墨俣川合戦後に頼朝の下に寄宿していたという『延慶本平家物語』の話は事実ではありません。当然ながら、これによる行家が義仲もとに走り「讒言」との記述も事実ではありません。

ならば、『延慶本平家物語』は無からこれらの話を作り上げたのでしょうか。『平家物語』だけではありませんが、『吾妻鏡』における治承・寿永の内乱での源氏関係の「誤謬記事」を分析した結果は、無から「誤謬記事」を作るのではなく、基本的事実そのものは存在するが、その真の日時などを前後させて、事実の真の意味を隠していること明らかにしました(拙稿Ⅲ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」(Ⅱ)『政治経済史学』227号1985年6月参照)。このことは、『吾妻鏡』のみならず、『平家物語』においても言えると考えます。すなわち、頼朝と対立した源氏の誰かが義仲に走ったという基本は事実であると言うことです。

では、行家でないとすれば、それは誰でしょうか。結論から言えば、(その1)で述べているように、義仲叔父の志田義広です。本拠の常陸信太(志田)庄(茨城県江戸崎町など)を発し、2月、頼朝方の小山氏と下総の野木宮に戦い、義広は敗れます。その後、彼は史料から見えなくなります。敗戦後、彼がどこに行ったかは明示されていないのです。本年は、その後、5月に義仲軍が加賀越中国境の砺波山で平氏軍を撃破し、これ以後、怒濤の進撃をし、7月、平氏は都落ちし、替わって義仲を筆頭とする反乱軍が入洛し「官軍」となり、状況が一変するのです。頼朝は依然として鎌倉にいます。いわゆる「天下三分」の情勢です。このような中、頼朝は後白河院に使者を派遣して、義広の上洛について憤りの意を伝えました(『玉葉』寿永二年十月九日条)。これが義広の再登場です。彼は単独の存在でしょうか。以後の「『玉葉』の記載記事(閏十月二十三日条など)を見れば明白のように、義仲の傘下に彼は入っています。そして、翌年正月、義仲と頼朝との軍事対決の時、頼朝の派遣した範頼・義経軍に対して、宇治の防衛線の大将軍が義広でした。以上のことから、野木宮合戦敗北後、甥の義仲を頼って、その元に赴いたとすることは自然なことであると言えます。そうです、行家ではなく、義広が頼朝と対立し義仲へと走ったのです。

頼朝からすれば、義広が義仲の下に走ったことは対決すべき名分ができたことになります。さらに、平賀氏が頼朝方に傾き、甲斐源氏の一部が義仲より離れ頼朝に付くとなれば、状況は大きく頼朝に傾き、侵攻策が取れるわけです。ここに、頼朝軍の信濃侵攻がなされるのです。この対決は反乱軍同士の同士討ちの感に見えますが、治承・寿永の内乱が多重的な歴史的意義を有した中で、武家棟梁の座を巡る、とりわけ源氏棟梁間のそれであり、本質的にはその座が一つでしかない以上、最終的には避けえないものでした。ともあれ、義仲としてはその劣勢は如何ともしがたく、嫡男義高を大姫婿との体面で人質に出すことで、和睦します。この結果、両者の軍事対決が今回は避けられ、信濃より東山道から都を目指すことを放棄せざるをえなくなった義仲は、越後を拠点として、横田河原合戦後に独自に反乱を展開していた北陸道反乱勢力と連携することで上洛を果たし(浅木年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)、唯一の武家棟梁の座を目指すのです。

(終わり)

(2005.05.22)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本中世史(軍事) パーマリンク

寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その3)―歴史雑感〔2〕― への4件のフィードバック

  1. Belinda より:

    初めまして。ご挨拶は遅れましたが、ブログリンクに入れさせて頂きます、宜しくお願いします。

  2. 正大 より:

    糠漬けさん、はじめまして。リンクありがとうございます。当方もリンクさせいただきます。

  3. Belinda より:

    謝謝您。貴ブログでいろいろ貴重な歴史知識が読めます、なので是非もっと他の方に読んで貰いたいので、リンクに入れさせて頂きました。今後とも宜しくお願いします。

  4. より:

    リンクに入れて頂き、恐縮ですが、ありがとうございます。最近たまたま中国語が多かったけど、実は気持ち次第で日本語も使っています。またお邪魔致します。

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