寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その2)―歴史雑感〔2〕―

1979年放映のNHKの大河ドラマ「草燃える」をご覧になった方はご記憶かもしれません。許嫁の義高(木曽義仲嫡子)を父頼朝の命により殺されて、以後心身の病となり薄幸の生涯を終えた頼朝長女の大姫の悲劇が描かれていたことを。

このことは『吾妻鏡』に記述されています。しかし、その最初の記事、元暦元年4月21日条で、義高は大姫婿として登場しますが、これは彼の初見で、何時いかなる経緯で彼が婿になったかを『吾妻鏡』は語っていません。

この経緯を説明してくれるのが、前回に示した『延慶本平家物語』第三末之七・兵衛佐与木曽不和ニ成事です。これにより、前年春の頼朝と義仲の衝突の結果、義仲の嫡男義高が頼朝婿という形で鎌倉に来たことが説明できます。しかも、この年は『吾妻鏡』欠文なので、この件が『吾妻鏡』に見えないことも理解できます。以上の意味で、細部において物語の限界はあるにしても、『延慶本平家物語』に代表される語り本系は史料的価値があるのです。

さて、彦由氏はいかなる点に注目したのでしょう。それは、直接に関東より碓氷峠を越えて頼朝軍が信濃に入ったという点です。甲斐源氏の伊沢信光の先導にもかかわらず、甲斐経由で信濃に入らなかったことです。この点から、氏は以前の佐久党・木曽党・甲斐源氏の3者連合の中で、最初に頼朝に接近したのは佐久党(平賀義信。平治の乱の敗走の中、最後まで義朝と行動をともにしました。『平治物語』)であろうとし、それ故に、平賀氏が寝返ると予想したから碓氷を越えたと考えたのです。

さて、佐久平(佐久・小県郡)は信濃反乱軍にとっていかなる地でしょうか。一志茂樹氏は木曽義仲の地盤が木曽ではなく東信地方と西上州であるとされています(「木曽義仲挙兵の基地としての東信地方」『千曲』1・2号1974年)。氏の見解は信濃を義仲中心ととらえる点で、信濃反乱軍は義仲単独の主導のもとではなく、松本平(筑摩・安曇郡)・木曽谷の木曽党、佐久平・善光寺平(更級・植科・水内・高井郡)の佐久党、伊那・諏訪郡の甲斐源氏と、この地域的にも独立した3者の連合体であるとする、私の見解(拙稿Ⅰ)とは異にします。しかし、信濃反乱軍を飛躍させた横田河原合戦において、反乱軍が出撃したのは佐久からであることを考えれば、いずれにしても、この時点で信濃反乱軍の拠点が佐久であったことは間違いありません。したがって、以後、越後に進出したとしても、信濃の拠点が佐久であったろうことに変わりないはずです。

軍事的にいえば、その関東への正面入口である東山道の碓氷峠は最大抵抗線ということになります。最大抵抗線を攻撃目標に選ぶのは下策です。しかし、頼朝はそれをしました。このことは佐久平に頼朝に味方する有力武士の存在があったと考えるのが自然です。彦由氏が示した平賀氏がそうであると考えます。

『平家物語』巻四・二源氏揃への事では信濃源氏の一員として登場するにもかかわらず、義仲関係において、横田河原合戦や砺波山合戦は無論のこと、平賀氏は『平家物語』に一切登場しません。甲斐源氏と同じく、源頼義三男の新羅三郎義光(頼朝の祖の義家は長兄)を共通の祖とする平賀氏は、義光の子、四郎盛義を祖とし、佐久郡を睥睨する平賀郷(佐久市平賀)を名字の地とし、その子四郎義信・惟義父子が源氏揃えに名を連ねています。この源氏揃えには、義光の五郎、岡田親義も出ており、彼は国府の北、筑摩郡岡田郷(松本市岡田)を名字の地とします。彼は、『平家物語』では『源平盛衰記』巻二十九・砥並山合戦事で、戦死する記事のみしかありません。こうしてみると、『平家物語』では信濃源氏は義仲を除くと無視されています。

なぜでしょう。基本的に、治承寿永の内乱を描くに、『平家物語』は前半で木曽義仲、後半で源義経を源氏方の中心にしています。いわば、義仲物語と義経物語からなっています。そこではすべての出来事が彼らを中心として引き立つように構成されているのです。このことは『平家物語』を読めばすぐ気がつくことです。したがって、信濃源氏のことは義仲に代表されて彼の事績ということになります。唯一異なるのが、横田河原合戦での井上光盛(頼義弟の頼季を祖とし、高井郡井上郷―須坂市―を名字の地とする)の奇策(偽りの赤旗を掲げて近づき、敵前で白旗を上げて、城氏軍を潰走させた)の功だけです。このような義仲物語の性格を考えれば、義仲以外の信濃源氏のことが出てこないのは自然なのです。

以上のように考えれば、一志氏の見解は、信濃反乱軍を義仲のみで見る『平家物語』史観とでもいうべきものに影響されて、真実を見失ったといえます。赤子で木曽谷に隠れ、育った義仲に比して、それ以前から入部し根を生やした平賀・岡田氏などは大いなる武士団を組織していたことは明らかなのです。そうです、佐久の主人公は義仲ではなく、平賀義信・惟義父子の佐久源氏なのです。

こう考えれば、頼朝が碓氷峠越えが出来たということは、佐久の幾ばくかの武士たちが頼朝に付いただけでは不十分で、平賀氏の了解なしになしえないのが自然なのです。事前に平賀氏が義仲から頼朝に鞍替えしたことは明らかと考えるのです。義信は義朝以来の縁があり、義仲(1155年、父義賢は頼朝長兄の義平に攻
め殺されています―大蔵合戦―)より頼朝に近いのです。

ところで、甲斐源氏は、富士川合戦では頼朝と連合し平氏軍を壊走させ、横田河原合戦では信濃源氏と連合して平氏方の有勢たる越後豪族城氏の大軍を潰走させました。こうして、治承寿永の内乱の前半で、東国の反乱軍の優勢を決定づけた両合戦に甲斐源氏は参戦しているのです。甲斐源氏は頼朝とも信濃源氏とも連合しているのです。

そこで、頼朝の信濃侵攻の原因として伊沢信光の讒言と述べていることは、ことが事実かどうかは疑問がありますが、横田河原合戦時の木曽党・佐久党・甲斐源氏の3者連合のうち、甲斐源氏と信濃源氏との連合にひびが入ったことを反映した話と考えます。もちろん、甲斐源氏が総体として信濃源氏より離れ、頼朝側に付いたわけではありません。そうならば、頼朝軍は甲斐より侵攻できるわけで、このことが『平家物語』に反映されてもいいのですが、それは見られません。また、そうならば、甲斐源氏総帥武田信義の末子信光の讒言といった話ではなく、より信義に近いところの直接的な話で述べられているのが自然です。以上から見れば、甲斐源氏の信濃源氏からの離反はその一部であり、連合を良しとする者もおり、また中立を守る者もいる、という具合に3分されたと考えます。

(続く)

(2005.04.29)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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