寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その1)―歴史雑感〔2〕―

 治承・寿永の内乱で、1180(治承4)年8月、伊豆で蜂起した源頼朝が、鎌倉入り後、自身で兵を率い出陣したのは、3回あります。最初は、同年10月の富士川合戦です。次いで、兵を返して、11月、常陸に佐竹氏を攻撃したことです。この2回は通史でも述べられているように、少し歴史に興味ある人には周知のことです。

しかし、もう一つはそれほど知られていません。それは、1183(寿永2)年春の信濃出兵です。これは木曽殿源義仲を相手としたものです。今回は、これについて少し述べたいと思います。

周知のように、1180年9月、木曽義仲は信濃に挙兵します。そして、10月には、義仲は上野に進出し、11月に信濃に戻ります。彼を含む信濃の反乱軍(木曽党・佐久党・甲斐源氏の3手編成)は、翌年(養和元)6月、越後から侵攻してきた城氏軍を、横田河原(長野市横田―千曲川北岸でJR篠ノ井駅南)で撃破し、次いで、越後国衙を手中に収め、信濃・越後両国に覇権を立てました。この横田河原合戦の結果、中部日本以東は完全に反乱軍の支配するところとなりました(横田河原合戦については、拙稿Ⅰ、「治承寿永争乱に於ける信濃国武士と源家棟梁」『政治経済史学』100号1974年9月参照)。他方、源頼朝は、佐竹攻撃後、鎌倉に居して、南関東を基盤として、着々とその勢力を拡大せんとしていました。しかし、平氏を含め両者とも、折からの養和大飢饉により、軍事的行動は不活発となり、戦線は停滞しました。以上が、1182年末までの状況です。

1183年を迎えると、戦線はにわかに動きます。常陸の志田義広(源為義三男、義仲父義賢の同母弟)と下野の小山氏が、2月、下総の野木宮(栃木県野木町)で合戦し、義広は敗れ、その後義仲のもとに走るのです(野木宮合戦については、石井進氏、「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」『鎌倉武士の実像・石井進著作集第5巻』2005年1月岩波書店参照)。これにより、頼朝の権力が北関東へと浸透していくのです。この結果、信濃の反乱勢力と頼朝勢力との間が直接的な競合関係になるとともに、頼朝に敵対した義広を義仲が抱えることで問題が発生します。

これを伝えるのが、読み本系の『平家物語』です。この中で、もっとも古態を残すと考えられている、『延慶本平家物語』第三末之七・兵衛佐与木曽不和ニ成事の内容を簡略に説明します。

まず頼朝と義仲が不和の原因として、第一に、頼朝のもとにいた新宮殿源行家(為義十男、頼朝・義仲叔父で所謂以仁王令旨伝達者)の所領要求を頼朝がはねたために、行家が義仲のもとに走ったこと。第二に、武田(伊沢)信光(甲斐源氏総帥の武田信義五男=末弟)が、平氏が義仲を婿にするべく両者が文通している、と密告したこと。以上により、義仲に敵対心ありとして、悪日故に出陣を伸ばすようにとの忠告にもかかわらず、頼朝は、先祖頼義の奥州安倍氏攻略の先例を佳例として、即刻鎌倉を出陣しました。義仲はこれに対して、信濃の兵を率いて越後へと移動し、越後と信濃の国境の関山に陣を構えました。頼朝は信光を先陣に武蔵・上野を経て碓氷峠越えで信濃に入り、10万騎で樟佐川に陣を取りました。ここで、前年の横田河原合戦において寡兵で城氏の大軍を破っており、義仲は自信がありましたが、両者が戦うのは平氏を利するばかりと、信濃へ引き返すのを止め、関山に待機しました。これを知った頼朝は帰順を求める使者を義仲に派遣することにし、天野遠景(伊豆武士)が使者に立ちました。条件は、行家の引き渡しか、義仲子息の頼朝への差し出しです。この条件に対して、義仲が根井・小諸(信濃佐久郡の有力武士)と議すると、彼らは両者が戦えば平氏を利することになるので、清水御曹司(義仲嫡男義高)を頼朝へ渡すべきと進言しました。義仲乳母子の今井兼平はこれに反対し、頼朝と一戦すべきと主張しました。義仲は根井・小諸の支持なくして己が存在しえないと判断して、11歳の義基(高)を呼び寄せて、「おまえをやるのは頼朝と仲違いをしないためにだ」と言い聞かせます。そして、義仲は頼朝使者天野遠景と対面して、平氏を滅ぼす以外の二心がないし、行家のことを頼朝がそんなに恨んでいるとは知らなかったとし、嫡子の義高を渡すから、これを義仲の代わりの宿直としてくださいと述べました。さらに起請文を書いて、義高とともに頼朝のところへ送りました。義高には同年の海野重氏(幸氏・信濃佐久郡の武士)らを付けました。信光が頼朝に「讒言」したのは、義高を信光の婿に取ろうとしたところ、義仲が義高に信光の娘を出せといって受けなかったことを、恨んだことによります。かくて、頼朝は義仲の返答を受け入れて、義高を伴って鎌倉に帰陣しました。義仲は信濃に帰って、配下の武士30人の妻を集めて、彼らの命を義高一人の命に代えたと言うと、妻たちは喜んで、夫が義仲にどこまでも従うように起請文を書き、それを聞いた夫も悦びました。以上が要約です。

鎌倉幕府の正史的存在である『吾妻鏡』の同年条が欠文のためか、また『平家物語』は文学と考えられてきたためか、かつてこの記事は注目されてきませんでした。しかし、彦由一太氏がこの一本の『源平盛衰記』第二十八・頼朝義仲悪事に注目され、本記事に史料的価値を認めました(同氏、「治承寿永争乱推進勢力の一主流」『國學院雑誌』63巻10・11号1962年10・11月)。氏の見解は以後において示してゆきます。

(続く)

(2005.04.16)

広告

kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本中世史(軍事) パーマリンク

寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その1)―歴史雑感〔2〕― への3件のフィードバック

  1. より:

    在日の中国人です、同じ大学の教員です。最近のデモなどで歴史を勉強しようと思っておりまして、このブログを拝見させて頂きました。教科書問題も、読んでから議論すべきではないかと思いまして、昨日書店に行ってきましたが、見つかりませんでした。電話で尋ねてみれば、来年あたりに正式にでるって聞きましたが、ちょっとわけが分からなくなったところ、先生のブログから勉強しましょうと思いました。またなにがご質問させて頂くかもしれないが、宜しくお願い致します。

  2. 正大 より:

    は、じめまして、tiantiantiantiantianさん。こちらもリンクさせていただきます。なお、2001年扶桑社版中学用歴史教科書の原本は、『市販本あたらしい歴史教科書』2001年6月扶桑社(980円)として発売されています。本年版は教科書として正式に使用される来年春に発売となります。(神田の三省堂書店なら、各種の教科書を売っています)

  3. shiota より:

    初めまして、成都に暮らしているものです。よろしくお願いいたします。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中