源義経は名将か?否(その5)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈2〉『玉葉』による一谷合戦

 一谷合戦の基本史料は、『玉葉』・『吾妻鏡』・『平家物語』諸本です。確かに『玉葉』は同時代史料として価値が高いですが、その合戦経過記述は簡潔です。一方、『平家物語』諸本はエピソードも含み詳細ですが、物語という性格から虚構が含まれていることは避けられません。『吾妻鏡』は史書ですが、後世の編纂物です。いずれも一長一短があります。

一谷合戦に関して、後2書が依拠したのは何かについて、「かくて『吾妻鏡』も『平家物語』も、ともに義経の合戦注文をもとに構成していたとみられる」と五味文彦氏が指摘しています(同氏『増補吾妻鏡の方法』吉川弘文館)。したがって、『平家物語』と『吾妻鏡』は同一史料グループとして扱い、まず『玉葉』による一谷合戦の経緯を、次いで後2書による経緯を述べることにします。

源氏軍の京都進発は1月29日で、翌2月1日には全軍の出陣が終了していました。しかし、そのまま前進ぜず、翌日には京西郊の大江山(旧山陰道の山城・丹波国境辺―現国道9号線老ノ坂)との情報を記しています。そして、合戦直前の7日、平氏軍は2万騎、源氏軍は2・3千騎と「官軍」が少数と記しています。

源氏軍勝利の報は、8日未明に九条兼実は知りました。梶原景時の使者の報告を、高倉範季が伝えてきたものです。さらに、昼ころ、二条定能(兼実正室兄弟)が来て詳細を知ります。それによると、源義経の報告が一番に到着します。義経は搦手で、まず丹波城を落としてから、一谷を落としました。次いで、源範頼の報告が来ます。範頼は大手で、浜より福原に寄せました。以上により、合戦は午前8時から10時までのわずか2時間ほどで決着し、多田行綱が山側から攻撃し、最初に山手の守りが落ちたのです。この結果、福原城の平氏軍は排除され、ただ海上にあった数十艘の軍船のみが無事であったのです。それに乗船できなかった平氏軍兵は放火で焼死したのです。なお、平氏軍の戦死者の交名はまだ届かず、また三種の神器の安否も不明でした。

以上が『玉葉』による一谷合戦の経緯で、この元暦元年2月8日条以後には、本合戦自体についての記述はありません。ともあれ、7日午前に合戦が行われ、短時間のうちに平氏軍が敗北し、福原を追われ海上に逃れたことが分かります。ここで注意することは、源氏軍勝利の要点を、山手より攻撃した多田行綱としていることです。

(続く)

(2004.12.22)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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