源義経は名将か?否(その4)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈1〉

 1184(元暦元)年2月7日、一谷合戦は行われました。摂津国福原(神戸市)に拠を持つ平氏軍に対して、源氏軍が攻撃し、平氏軍を海に追落し、源氏軍が勝利しました。

前年7月に都落ちした平氏は西国に下り、巻き返しを図りました。それが着々と実り、本年初には、福原にまで進出し、東は生田森(同市中央区生田神社辺)、西は一谷(同市須磨区一谷町辺)に、山際から海へと南北に防御施設を構築しました。福原一帯を城郭としたのです。この後背として、大輪田泊に代表されるように海が控えていました。そして、ここを拠点として、平氏は京都の再奪還を図ろうとしていたのです。

この平氏の一大拠点の福原へ、源氏軍は京から二方面軍に分かれて攻撃するのです。主力は源範頼が大将軍に大手の生田森を、源義経と甲斐源氏安田義定を大将軍とする別軍が搦手の一谷を目指すのです。すなわち、3軍編成なのです。(彦由一太氏「甲斐源氏と事情寿永争乱」『日本史研究』43号参照)

では、源軍の合戦目的はなんでしょうか。平氏の再入洛の阻止は、平氏の都落ちに同行せず、さらに安徳帝がいるにもかかわらず後鳥羽帝を践祚させて、平氏を「逆賊」とした後白河院としても、もっとも切実なものです。頼朝は後白河院を推戴することで、おのが立場を「官軍」として正当化できたのです。したがって、第1に、平氏が京都の再奪還を目途としていた以上、逆に源軍はその企図の阻止ということになります。そのため、福原城を拠点とする平氏軍を、海に追落して、その拠点を破砕することです。平氏は都落ちに際して、安徳帝のみならず、三種の神器も保持してゆきました。すなわち、後鳥羽帝は三種の神器なしに践祚しています。このことはその正当性が揺らぐことになります。後白河院としては、是非ともその無事な奪還は皇位の正当性上欠かすことのできないものです。すなわち、第2に、三種の神器の無事な京都への帰還です。同様に安徳帝もです。この第2のことは、後白河院にとって、平氏戦における至上命令なのです。したがって、これは一谷合戦のみならず、以後の合戦においても同様なことなのです。

義仲攻めから2週間余で一谷合戦が生起したことからして、鎌倉・京都の連絡期間を考えても、東国軍の上洛に際して、一谷合戦は事前の頼朝指示にもとづくものです。同時に、前段でのことを考えると、それは後白河院の強い意志によるものであることが分かります。

(続く)次は一谷合戦の経過です。

(2004.12.19)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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