源義経は名将か?否(その3)宇治川合戦―歴史雑感〔1〕―

(1)宇治川合戦

 1184(元暦元)年正月20日、京都に孤立した源義仲軍が勢多と宇治に防衛線を張り、それを突破し京都に入り後白河院を保護せんとした頼朝派遣軍を主力とする反義仲軍との間になされたものが勢多・宇治合戦です。義経が宇治方面総指揮官として合戦したのが宇治合戦です。したがって、本合戦の目的は、第1に京の後白河院の保護であり、そのためにそれを妨害する義仲軍を撃破し入京し京を確保することです。第2に、武家の棟梁の競争者としての木曽殿源義仲の排除です。

まず、右大臣九条兼実の日記『玉葉』同日条で合戦の経過を見てみましょう。東国軍が勢多に進出した報を朝6時に九条兼実は告げられました。次いで勢多への進出を知りました。この報が終わらないうちに、もう六条河原に兵を見たという報をえて、人を派遣して確認させると、事実でした。昨日に宇治に派遣した志田義広は敗退し、東国軍が大和大路より入京し、六条に達していたのです。義仲は後白河院のもとに参上しましたが、東国軍の攻撃が急なので、院をすてて戦おうとしましたが、40騎にも満たない勢力のため一矢も射ることなく敗走しました。その後、東へと義仲は敗走し、粟津辺で戦死しました。そして東国軍の一番手は梶原景時と兼実は記しています。以上、義仲軍の敗退は急速で強固な抵抗はなし得なかったのです。そして、入京した義経軍が真っ先に六条殿の後白河院を目指してきたことが分かります。

他方、合戦の経緯を子細に述べているのが、13世紀に成立した原『平家物語』の古態を保っているといわれて、『平家物語』諸本の中で史料的価値のより高い『延慶本平家物語』です。ここでは、同書第五本で両軍の構成・兵力を見てみましょう。源義仲軍は、勢多に今井兼平が5百騎、宇治に志田義広が3百騎、そして京中に義仲自身が那波弘澄以下百騎です。東国軍は、勢多に大将軍源範頼以下3万5千騎、宇治に大将軍源義経以下2万5千騎です。この数字自体は誇大化されてそのまま両軍の実数とはいえず上限となります。それにしても義仲軍は千騎にも満たないのです。一方、『玉葉』元暦元年1月16日条では近江に入った東国軍を数万と記しているように、万単位の軍といえます。したがって、両軍の間には少なく見積もっても10倍以上の兵力差があったことは明らかです。

この合戦は宇治川を挟んで両軍が対峙しました。義経軍は渡河し北岸に陣する義仲軍を撃破して京を目指すことになります。平場の合戦として、いったん渡河を許せばその兵力差から防衛の術はないといってよいのです。渡河の成否が合戦を左右します。

古来、大軍に戦術なしと言われるように、兵力に格差のある場合には、優勢な側はただひた押しに正攻法で攻めてよいのです。まさしく、本合戦の経過を見るに、正面からなされる多勢による敵前渡河が本合戦の帰趨を決しています。その発端として、名高い佐々木高綱と梶原景季の先陣争いがありました。志田義広を撃破した義経軍は一気に入京し六条河原に殺到しました。ここで、同書では、義仲が義経軍と激しく戦闘を交えたと述べていますが、これは『玉葉』の記載が正しく、義仲説話としての虚構と考えます。次いで義経は畠山重忠・河越重頼・渋谷重国・梶原景季・佐々木高綱(『吾妻鏡』同日条では重頼嫡男重房も)を率いて後白河院に参上します。

以上のように、本合戦の経緯を見ますと、東国軍は圧倒的な兵力差に物をいわせて、まず宇治の義経軍が正面から敵前渡河をなして、義広を鎧袖一触して、後白河院の六条殿を目指して一気に進撃し、指揮下の主要武士を引連れて義経自身は真っ先に参院したのです。義仲は無勢のため院を放棄し戦うことなく東に敗走し、勢多を破った範頼軍に捕捉され戦死したことになります。

この勢多・宇治合戦に見る東国軍の行動は、まさしくその目的に適っていることが分かります。とりわけ、第1目的である後白河院の保護を義経は最優先に行動したことが分かります。その際、指揮下の有力武士をともない、彼らに戦功を与えています。こう考えますと、義経の行動は本合戦の目的と指揮下にある東国武士の希望に叶うものです。本合戦の指揮官として義経は合格ということになります。

しかしながら、先に触れたように、大軍に戦術なしの喩えどおり、本合戦では指揮官がその戦術的能力を発揮するまでもなく、東国軍の勝利は当然のことです。したがって、義経が他者にない力量を発揮したから、本合戦に勝利したとはいえないのです。その意味で、本合戦から義経が卓越した戦術能力をそなえた将軍であるかは判定できないのです。ただいえることは、初戦において義経は自己の任務をまっとう出来、それにより自信をつけただろうことは言えます。

(続く)

なお、一谷合戦は義経のハイライトでもありますが、問題点もあり、少々時間がかかります。

(2004.12.11)

 

 

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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