源義経は名将か?否(その2)―歴史雑感〔1〕―

 では個々の武士は何を求めたのでしょうか。なぜ頼朝に代表される武家の棟梁と主従関係を結んだのでしょうか。当然ながら「一所懸命」の言葉が表すように自己の土地に対する権利の保護を求めるからです。それに加えて、その土地の拡大を果たしてくれることです。すなわち本領安堵と新恩給与です。これを保障してくれるからこそ、武士は棟梁のために自己の命を賭すのです。この「御恩」と「奉公」の関係が中世武士団の基本です。棟梁はそのためにこそ存在するのです。

かかるように、総体的に京都に独立した自力救済原理の確立、個別的には本領安堵と新恩を求めて、東国武士を中核として全国に反乱が拡大したのが治承寿永の内乱(源平合戦)です。頼朝はその嚆矢であり、そのもとに東国武士の多くが結集したのです。

以上のように、東国武士が反乱に参加したと考えます。

このことに立脚してこそ、義経の評価ができるのです。

1180(治承4)年10月、富士川合戦で源氏軍勝利直後に、義経は頼朝のもとに奥州より参加しました。その後、1183(寿永2)年7月に平氏を追落し入洛した木曽義仲は次第に孤立し、一方京の後白河院は東国の頼朝に救援を求めました。そこで、頼朝の代官としてこの冬、少数の兵を率いて上洛したのが義経です。これが義経の中央の登場の最初です。この後、宇治川合戦・一谷合戦・屋島合戦・壇浦合戦と連戦連勝したことは周知のことです。

そのいずれの合戦においても頼朝代理としての西国派遣軍最高司令官が義経の立場です。そこであらためて、それを基本において個別の合戦での義経の役割とその評価を考えて見たいと思います。

なお、日記類に代表される同時期史料では各合戦の経過などの詳細には触れておらず、具体的な合戦経過を知ることはできません。したがって、『平家物語』諸本によるしかないのです。『平家物語』はいくつかの説話群を、例えば義仲説話、を利用しており、義経説話もその一環です。これらは基本的にその周囲で起きた出来事も彼一人の出来事と集約されており、かならずしも彼自身の行動と保障することはできないのです。しかもこれらには、悲劇の英雄として描く立場があってなおさらです。それですから、真の合戦の経過とそこにおいて義経がどう行動したかは明証されないのです。この限界を心得て以下の個別合戦の分析を行いたいと思います。

(続く)

(2004.12.07)

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kanazawa45 について

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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