『吾妻鏡』人名表記の史料的価値
金澤 正大
阿部猛編『中世政治史の研究』2010年9月日本史史料研究会は、院政期から織豊期まで40編の論考を載せた、意欲的な論文集である。しかし、残念なことに、鎌倉期に関する論考中で、『吾妻鏡』の史料操作において、初歩的な疑問が見られることである。『吾妻鏡』が鎌倉前中期の基本史料であることはいうまでもない。だが、『吾妻鏡』は編纂物であり、八代国治氏『吾妻鏡の研究』1913年吉川弘文館、以来の諸先学が論じているごとく、幾多の誤謬・錯簡(中には作為的なものも)がある。従って、絶対的に信用できる史料ではなく、やはり厳密な史料批判が必要なことは周知のことである、
では、その諸論考における初歩的な疑問とは何であろうか。それは、『吾妻鏡』の人名表記を基本的に正しいとして、これのみを根拠に当該人物の官職を論じていることである。
具体的な例を出そう。佐藤雄基氏「公卿昇進を所望した武蔵守について」において、
建保六年七月八日条の行列の記事には、前駆の中に「民部権少輔親広」という表記が見える。この記事から七月八日の時点では親広は武蔵守ではなく(頁99)
と、この官名表記により大江親広の武蔵守の当該時期の現任を否定している。すなわち、この官名表記が正しいとされるのである。
この実証は正しいであろうか。氏自身が表二(頁118・9)に示しているように、将軍家政所下文の親広の署判は、建保四(一二一六)年八月十七日「民部権少輔大江朝臣」、建保五(一二一七)年六月二十一日「前遠江守大江朝臣」とあって、建保五年には民部権少輔を辞めていたことになり、民部権少輔ではなく、以前任官していた遠江守(建暦二〔一二一二〕年から建保三〔一二一五〕年にかけて。表二参照)を前官として、散位の表記としたのである。すると、先の『吾妻鏡』の官名表記は「前遠江守」「前遠州」となるはずである。すなわち、『吾妻鏡』の官名表記自体が正しいとはいえないことをこのことは示している。従って、上記の官名表記のみをもってなされる論証は不十分といえ、実証とはいえないのである。
次いで、氏は、
『鏡』建暦三年五月二日・三日条の和田合戦の記事に、義氏が和田方の勇将朝比奈義秀と戦って名を挙げたという記述が見えるが、そこでは「足利三郎義氏」「上総三郎義氏」と表記されており、無官の三郎に過ぎない。(頁100)
と、当該時期での足利義氏の任官(武蔵守)否定の根拠を、その人名表記に求めている。極めて素朴に『吾妻鏡』の人名表記を疑っていないのである。
これは正しいであろうか。その人名表記は『吾妻鏡』編纂における作為、すなわち誤謬であることは、拙稿「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配―武蔵守北条時房補任事情―」『政治経済史学』第二百二十二号一九八五年一月において、論証したところである。残念なことに、実朝将軍期の武蔵守を論じた氏の論考には、拙稿を見た気配が全く見られず、いわば先行論考無視の論述といわざるをえない。
また、『吾妻鏡』建保元(建暦三・一二一三)年同日条の人名表記を根拠として、足利義氏の元久二(一二〇五)年八月九日の任武蔵守を否定しているのは、前田晴幸氏「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」(頁177)も同様である。しかも氏はこれに加えて、拙稿「武蔵守北条時房の補任年時について―『吾妻鏡』承元元年二月廿日条の検討―」『政治経済史学』第百二号一九七四年十一月を註として挙げ、
義氏の武蔵守補任時期を、(中略)金澤正大氏は建永二年(一二〇七)正月十四日とする。(頁177)
と本文で述べているのは、本当に拙稿を読んだのか疑うものである。何故ならば、拙稿は北条時房の任武蔵守年時が、承元元(建永二)年ではなく、承元四(一二一〇)年であることを論証したものであり、拙稿には足利義氏を一切記述していないからである。
以上のごとく、『吾妻鏡』の人名表記を疑うことなく、これのみを根拠として、当該人物の官職を論じるは実証不十分であることが理解できよう。
『吾妻鏡』の人名表記に、実際の官職(無官も含む)に関して誤謬がある例を二つ示そう。一つは、無官表記の時にすでに任官していた例である。北条有時がそうである。先ず、有時の任官歴を見よう。『関東評定衆伝』(『群書類従』第四輯補任部)によると、次の通りである。貞応元(一二二二)年十二月二十一日・任大炊助、貞永元(一二三二)年六月二十九日・叙爵、同日・任民部少輔、嘉禎三(一二三七)年七月十三日・罷民部少輔、同年十一月二十九日・任駿河守。
『吾妻鏡』での有時の人名表記は次の通りである。承久三(一二二一)年五月二十二日条に「陸奥六郎有時」と初見して以降、元仁元(一二二四)年六月十八日条に「同(陸奥)六郎」と所見するまで、無官を意味する「陸奥六郎」表記なのである。嘉禄元(一二二五)年五月十二日条で「大炊助有時」と初めて官名表記となるのである。すなわち、貞応二(一二二三)年十月十三日条と元仁元年条の「陸奥六郎」の無官表記は誤謬なのである。これを根拠に、有時の無官を論じるわけにはいかないのである。なお、嘉禎三年六月二十三日条に「駿河守有時」と見え、官名表記においても誤謬が見られるのである。
もう一つは逆に、無官にかかわらず官名表記の例である。安達景盛がそうである。景盛の官暦は『吾妻鏡』の卒伝記事、宝治二(一二四八)年五月十八日条により、建永二(一二〇七)年月日(十月二十五日改元し承元元年)・任右衛門尉、建保六(一二一八)年三月六日・任出羽権介(秋田城介)、同年四月九日・叙爵。
『吾妻鏡』での景盛の人名表記は次の通りである。正治元(一一九九)年七月十六日条の初見から正治二(一二〇〇)年二月二十六日条までは基本的に「安達(弥)九郎景盛」である。これが、建仁三(一二〇三)年十月八日条に「安達九郎左衛門条景盛」と、初めて官名表記が出現する。以後の所見は官名表記(但し、左衛門尉と右衛門尉が混合している)が基本となる。これに対して、建保六年十六日条に去六日の秋田城介の任官記事があり、これに対応して、以後の所見では同年六月二十七日条に「秋田城介景盛」と見えるように、基本的に「秋田城介景盛」表記となる。
以上、二つの例の人物は共に評定衆を勤めた(『関東評定衆伝』)幕府重臣である。かかる人物であっても人名表記は正確に官職表記を反映していないのである。すなわち、『吾妻鏡』の人名表記は当該人物の官職を正しく反映しているとはいえないのである。当然ながら、『吾妻鏡』の人名表記をもって当該人物の官職を論じる場合、特に正確な日時を論じる場合、『吾妻鏡』のみを根拠として論じてはならず、厳密な史料批判が必要なことが改めて痛感されるのである。
〔付記〕 本雑感は、論考批判ともなり、本来は研究ノート的ともすべき専門性を有しているので、デス・マス体ではなく、論文文体のダ・デアル体としました。
(2011.08.08)